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闘争心のはけぐち

ぼくらの心は結局、平和の中にいたとしても何かと闘おうとしてしまう物だ。

だれかの不倫とか、
野球観戦のヤジとか、
ロックバンドの煽りとか、

おそらく大勢の人が本当にそのことに興味があるのか疑問な範囲で『正しいか正しくないか』の話に10インチ弱の小さな窓から口を出したり傍観しながら心を動かしている。

最近話題になったワンオクの煽りに関して、ぼくはたまたまその現場に居合わせていた。

ぼくの思考は「これはどういった種類のエンタメなのか」という問いに夢中で、「そうか、これはアメコミヒーロー的エンタメだ、アベンジャーズだ」なんてことを考えていた。

そのおかげで問題になったMCのことは気にも止めていなかったので、後にそのことがニュースになっているのを見て少し驚いたものだ。ニュースになんのかよ、と。



ぼくらの心は結局、平和の中にいたとしても何かと闘おうとしてしまう物だから、それをどう問題のない範囲で処理するかを模索している。

カラオケやフィットネスやスポーツで身体機能を思い切り使う、

ビジネスや競技やファッションで数字の背比べに身を投じる、

そして悪を正す正義、未熟さへの罵倒、ピエロへの哄笑。

このあたりがポピュラーであるとして、それらの多くが昨今の感染症の影響で閉ざされていたのが現実だと思う。

そして今もっともコスパの良いはけぐちとなったのがSNS上での『悪を正す正義』な気がしている。

ものすごくクソみたいな例え話をしてみよう、小学生の30人ほどのクラスがあるとする。

 そこでは謎の病気が流行っていて、几帳面な先生によって命にかかわる可能性がある遊びが次々に禁止されている。

走ること、大声を出すこと、ついでにふざけることも禁止されている。

子供たちは勉強によるストレスがたまり、やがて我慢が上手じゃない子供から叱られていく。

だけれどもなぜかルールを破っても怒られないことがある。その条件が『正しいこと』だ。

走っている人を走って止めに行ったら許される。
大声を出したり、ふざけている人に注意するためであれば、大声が許される。

この事に気づいた子供たちは、ルール違反する人を探すようになる。正しい事をするとスッキリするから。

この状況が進むと、やがてみんなその事に気づいて、ルール違反する人がいなくなる。
だけどそれではみんな困ってしまう。ストレスがたまる。はけぐちがない。

だからみんな必死にルールを破る人を探す。でも誰もいない。そんなとき我慢が上手じゃない子供が指差して言い出した。

「あいつがルール違反をしている」

だけどその指し示した先にいる子供は誰がどうみてもルールを破っていなかった。

我慢が上手じゃない子供は間違えたのだ。

そして間違えた子供はクラスのみんなに悪者にされた。間違いを指摘することは「正しい」から。

そのことがあってから、ルール違反を指摘することはリスクがあることに気づく子供が出てきた。

そこで発明されたのが『密告』だ。ようは誰が指摘したかわからなければ、それが間違っていても自分に返ってくることはない。だけど間違っていなければ『正しいこと』ができるのだ。

現状行われているのはこんなかんじの話の延長線だと思っている。

コスパの良くなりすぎた正義は糖質に似ている。正義に依存すると、世の中に悪を探す目が身につく。

程度によってそれは良い事にもなりうるけど、度が過ぎれば認知の歪みになって不幸を招くかもしれない。

そしてたぶん僕ら現代を生きる人間の大半は、必要のない正義を過剰摂取している。砂糖と同じように。

だからやめろって話じゃなくて、それを意識するだけで変わることもあるかもねって話なんです。

意識すれば、正義以外のはけぐちが用意できると思うんです。知らんけどな。


🤲