見出し画像

カレーやラーメンが嫌いな人の人権を無視する多様性の話

どうも、しんたろーたりーと申します!営業マン歴13年、ナンパ歴14年の経験を活かし、voicyのパーソナリティをさせて頂いております。本日も「ろりラジ」で話したことを文章にしていきたいと思います。

今日は「多様性」というテーマについて少し考えてみたいと思います。


たとえば、「仏教って素晴らしいよね」とか「スポーツっていいよね」といった考え方は、広く受け入れられている意見だと思います。ワールドカップでみんなで応援しよう!なんていうのも、もはや正解といえるレベルで、大多数の人が「そうだよね」と賛同する。

こういう場合、圧倒的に多くの人がその意見を支持していて、9割の人が「そうだ」と思っているとしましょう。その時に、残り1割の人たちの意見って、どう扱われているでしょうか?

残念ながら、無視されたり、ないがしろにされたり、時には否定されたりしがちなんです。ここが、僕たちが今「多様性を認めよう」と言っている中で、注意していかなければならないポイントだと思います。


「多様性を認める社会であれ」という声、よく聞きますよね。僕もろりラジでこの話をすることが多いんですけど、これが面白いのは、ある程度の規模の少数派、たとえば全体の3割くらいを占めるようなグループが、「多様性を認めて!」と声を上げて、少数派が多数派に存在を認めてもらおうとする行動に酔うケースが多いように思います。

つまり、7:3くらいに分かれている場面では、3割の人たちの声がどんどん大きくなり、影響力を持つようになってくるんですね。この声の大きな「3割の人たち」が「多様性を認めよう!」と言い出す。でも、その3割の中でも、さらに超少数派の意見となると話が違ってくるんです。


たとえば、「多様性を認めよう」と言いながら、ある話題になると「それは違うでしょ!」と否定することってありませんか?

例を挙げると、仮に誰かが「ロリコンも多様性の一部として認めるべきだ」と言い出したとしましょう。この意見に対して、「いや、それは違うでしょ」と一蹴される。でも、それって結局、全ての多様性を認めているわけじゃないですよね?

もちろん、この例は極端なものですが、言いたいのは「超少数派の意見」ってどんな状況でもないがしろにされがちだということです。無視されたり、馬鹿にされたり、否定される。これが現実です。


だからこそ、僕たちは本当に多様性を認めようとするなら、まずその言葉の意味や限界についてしっかり考える必要があると思います。「多様性を認める」とは、全てを無条件に受け入れることではなく、その中でどんな基準やルールを設けるべきかを議論することも含まれるのです。

超少数派の声に耳を傾けるのは難しいことですが、それが本当の意味での「多様性」への一歩なのかもしれません。

今日もここまで読んでいただき、ありがとうございました!


いいなと思ったら応援しよう!