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有罪の人が逃げおおせる世界の方がまだマシ

どうも、しんたろーたりーと申します!営業マン歴13年、ナンパ歴14年の経験を活かし、voicyのパーソナリティをさせて頂いております。本日も「ろりラジ」で話した内容を文章にしていきたいと思います。

今日は、行いの評価や、それに付随するリスクについてお話しします。このテーマ、実は非常に深刻で、僕は心からこの危険性を理解していただきたいと思っています。

行き過ぎた「行い」の評価の危険性

まず、歴史を少し振り返ってみましょう。皆さん、「魔女裁判」という事件をご存じでしょうか?中世ヨーロッパで行われた、いわゆる密告社会の典型例です。「あいつは魔女だ!」という根拠のない告発が行われ、その結果、疑いをかけられた人々はまともな審議もされず、無残に処刑されていきました。

また、ナチスドイツの時代でも、密告が横行する社会がありました。「あの人は国家に反逆している」といった告発が頻発し、誰もが疑心暗鬼に陥るような社会が作り上げられていました。

このような社会に行き着くと、何が起きるのか。行き過ぎた「行い」への評価が、無実の人を犠牲にするようになるのです。これは過去の話ではなく、現代でも注意しなければならない危険性なのです。


日本社会が持つ「原則」の重要性

幸い、今の日本にはまだ理性があり、このような状況には至っていません。しかし、それでも私たちは、行いに対する評価がどれほど危険なものになり得るかを理解しなければなりません。

事実、今の日本はSNSが発展しすぎて、このような歴史を知らない人や、承認欲求が満たされない方々が自分の意見を発信しやすくなっています。この状態は非常に危険です。

日本の法の基本原則として、「無実の人を有罪にしない」という大前提があります。これには非常に強い倫理観が込められています。例え有罪の人が100人逃れることになったとしても、1人の無罪の人を有罪とすることは絶対に避けるべきだ、という考え方です。

なぜこれが重要なのか。それは、罪を犯していない人に罪を背負わせることが、個人にとっても社会にとっても計り知れないダメージをもたらすからです。正義の名のもとに、無実の人が犠牲になることがあってはならないのです。

例えば、有罪の人は絶対に逃げる事は出来ないが、100人に1人は無実の人が冤罪で罰を受ける社会になってしまった場合どうでしょうか。
ここに疑心暗鬼が生まれます。
日本社会では、「罪を犯してなければ、自身の自由が理不尽に奪われる事は絶対にない」という担保があり、自由に生きる喜びを享受できているのです。

この原則が崩れてしまえば、「いつ自分がいわれのない罪で理不尽に自由が奪われるかわからない」社会となります。

まさにこれが、魔女裁判の世界であり、ナチス・ドイツ時代の世界なのです。



現代における警鐘

現代では、SNSを含むさまざまなメディアで、他者の行いが瞬時に拡散され、評価される時代です。「正義のために」との名目で批判が行われることもありますが、その正義は本当に正しいのでしょうか?

魔女裁判の世界や、ナチス・ドイツ時代の世界に向かおうとしていないでしょうか。

たとえ、誰かの行いが目に見えて悪いものに見えたとしても、私たちは冷静になるべきです。その行いの裏にどんな背景があるのか、そしてその評価が果たして正当なものかどうかを、慎重に判断しなければなりません。

私たち一人ひとりが、この原則を胸に留めておくことが、社会の健全さを守る第一歩だと思います。


最後に

「行い」は評価されるべきだ、という意見に異論はありません。しかし、行き過ぎた評価や、不当な裁きが行われる社会は、私たちの大切なものを奪い去ります。無実の人を守るという日本の法の精神を大切にし、冷静で公正な視点を持ち続けましょう。

本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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