ムナしい

むなしい。虚しい。空しい。ムナしい。いろんな書き方があると思う。僕は「ムナしい」と書くことにしている。理由はいくつかあって、一つ目はサザエさんのマンガで長谷川町子がそう書いていたから。二つ目はカタカナの無機質感がムナしさを加速させるから。まあそんなもんである。

説明はこのくらいにしておいて、最近とにかくムナしい。その後に死にたくなる。原因は不明。僕は鬱病の診断書が出ているわけではない。鬱状態らしいけど(医者によるとだけどね)、鬱だとムナしく死にたくなる、この関係性がわからない。

実家に引きこもっていたころもムナしく死にたかった。オーバードーズは何回もしたし、首吊りも試してみた。無意識で生き残った。死ねなかった。
実家にいたころは、人間関係も固まっていて、母親と妹としか日常的に顔を突き合わせて話していなかった。だからムナしく死にたくなる。これは読者諸君もわかってくれるかもしれない。

しかし今。僕は大学生になり、順調に社会復帰への道を歩んでいる。友人もそれなりにいるし、授業も単位をもらえる程度に出席しているし、新生活にも慣れてきた。それなのにムナしいのはなんでなんだろう?

もしかしたら、死にたいからムナしいのかもしれない。だって、死んだらすべてが無に帰すじゃないか。つまり、すべての事柄は全く、だれにとっても、意味がない事柄なんだ。

堂々巡りになってしまっている。なんで死にたいんだ?今の生活は少なくとも実家にいたころよりは楽しいはずだ。それなのになんで?

実家にいた時、死にたくなっていたのは決まって深夜、一人で布団の中にいる時だった。孤独と希死念慮の関係。これはわからんでもない。

しかし、最近は友人と一緒にいるときもムナしい。ふと、すべてがどうでもよくなってしまう。なぜ?

わからない。太宰の小説に「トカトントン」というものがある。とある男が、ふと、「トカトントン」という音を聞く。それ以来、何かに熱中したり、興味を持っている時に、どこからともなく「トカトントン」が聞こえ、すべてがどうでもよくなる、という症状だ。その男は、自分の症状を手紙にしたためて、(某作家、とあるが、太宰のことだろうと僕は思う)太宰に送る。太宰はこう返事している。

「拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを憚るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」この場合の「憚る」は、「畏敬」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。不尽。」

この文章の中の、ゲヘナ、という単語が分からなかったので、調べた。
ヘブライ語で「ベン・ヒンノム (息子) の谷」のユダベニヤミンの地の境界の一つで,エルサレムの南にある谷。王国時代に子供たちを焼いて異教の神バールに燔祭として捧げた場所 (列王紀下 23・10,エレミヤ書7・31) 。預言者エレミヤはこの祭儀を繰返し非難し,この谷は虐殺の谷と呼ばれる日がくると預言した (エレミヤ書 19・5~6) 。ユダヤ教においては比喩的に死後罪人がを受ける場所,地獄の名で呼ばれ,新約聖書も同様の意味で用いている。』

要するに、ゲヘナとは、地獄ということらしい。
「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを憚るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」

「このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。」という言葉を考えてみる。
つまり、自分の魂も、肉体も、地獄で滅されようとも、関係ない、というスタンスを持て、ということだろうか? この「男」は、トカトントンを聞いたとき、まさにこの境地に至っているのではないだろうか?本人が気づいていないだけで。太宰は、自覚せよ、と言いたいのか?よくわからない。

ムナしさが増してきたので、ハイライトを一本吸って、バドワイザーを開けた。タバコも酒もまずい。抗鬱剤だって飲みたくない。なぜこうまでして生きなければいけないんだ。
でも、僕の筋肉は勝手に呼吸をするし、腹も減る。僕は息もするし食べる。
なんだか、矛盾の中に生きている気がする。
いつかこの矛盾から抜け出たら、僕は健康になれるかな。
死ぬか生きるか。明日の僕次第である。さようなら。


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