【この世界に立つということ】
繰り返される日常の中おいても、変化は確実に起きるのであれば。
信じていた世界は、今この瞬間にも崩れ去るかもしれない。
自分のあり方すらも、「固めては崩して」の繰り返し。
悠久にもみえる時の中で迷うことに疲れたとき、この苦しみから逃れるべくこの生に自ら終止符を打たんと考えたことは今まで一瞬たりとも無かったとは言いきれない。
しかし、
そんな自分を一笑に付すことで、今ここに立っている。
迷いを捨て、前だけを向くことだけが強さを表す。
と思うこともあったが。
常なる変化と時の流れの遼遠さをみるならば、それすらも現実逃避の弱さともとれる。
ならば迷い続けながらも今の自分の価値観の中で、できる限りで出来るだけ格好をつけるよう努めることこそが。
善く生きるということかもしれない。
それが誰かの目に格好よく映ったならば、それは誰かから評価されているということ。
考え方は人の数だけあるからこそ、正義とは最終的には自己の中にしか築けぬものかもしれない。
謙虚さとは他者の正義を受け入れつつ、できるだけ自分の正義を真摯に貫けるかどうかにかかってくる。
他人の価値観におびえ自分の正義を語れないのは謙虚ではなく怠慢。
空気を読み違えるのを恐れ、自分の正義を忘れ、迎合にのみ終始するのであれば、それこそ何らかの役目を負いこの世界という舞台に立つという使命から逃げるに他ならない。
発言し、主張し、時には怒り、憎しみを表に出さなければ、自分という存在は嘘になる。
このようなことをことさらに言語化するのも我が未熟さのあらわれかも知れぬが。
言語によってたつ世界ならば、時にはそれもよかろう。