レム・コールハースとのトーク
2015年5月19日、太田佳代子さんにお声がけ頂き、レム・コールハースとのトークイベントに南後由和さんとともに登壇させて頂いた。90年代の建築学生はみんな持っていた巨大な書籍『S, M, L, XL』のテキストのみを抜粋した日本語版『S, M, L, XL+』の発売記念であった。FBでの記録をこちらで再掲載。
レム・コールハースといえばドタキャンもよく聞くので(実際1998年7月18日 安藤忠雄さんが東京大学に招いた際もコールハースは来なかったし、私と南後さんが参加していた東京大学情報学環で2007年に開催された国際学会「Ubiquitous Media Asian Transformations」で基調講演をするはずのコールハースは来なかった)、この日も来ないのではないかと内心思っていた。
集合時間に指定された場所に着いたが誰もいない。もしやと思ったがしばらくして太田さんが現れた。「外のテラス席が気持ちいいと言っているから」と外に行くとテラス席にレムが一人で座っていた。緊張しつつ挨拶し事前打ち合わせを始める。
レムはびっしり付箋を挟んだ私の『S, M, L, XL+』を見て少し笑った。ちょっとは気合いが伝わっただろうか。私と南後さんがそれぞれ用意してきた質問を伝える。私は絶対にこれだけは伝えよう、聴いておこうという質問をA4のレジュメにびっしり書いておいた。
事前に質問の詳細を伝えないほうがよいのではと思っていたが、通訳の方が全部伝えてしまい、議論が始まってしまう(笑)。
私はとりあえず「希望の軸」の写真を見せた。レムは「これは何?」と聞いてきたので、今日の日本の建設業が動員される新たな軸線だというと「Great!」と言っていた。「シンガポール・ソングライン」で描かれたメタボリストとシンガポールの関係は今日ではこのように解釈できると。なんとなくレムのスイッチが入り、テンションが上がっていく。
他にこの時間にレムから聴かれたことは
(1)日本の若い世代から『PROJECT JAPAN』についてのリアクションがないが感想は?
(2)『S, M, L, XL』は今日でも通用すると思うか?
(3)日本人建築家は「Cute」だが政治性がなさ過ぎていらだちを覚えるがどう思うか?
など。
南後さんが「国家権力との関係が途絶えて建築家が弱体化し、プライベートセクターが強まっている」というので、私は「日本では人口減少が始まり少ない投資をどこに配分するかが政治課題となりつつあり、1950年代のようにプロフェッサーアーキテクトの役割が再浮上している」と伝えた。
レムは「ふたりは大学に所属しているのか?」と聞いてきた。「YES」「どの大学?」藤村「東洋大学」南後「明治大学」。そこで時間切れ。会場へ。
私はてっきり、レムに何か質問したところで、磯崎さんのように滔々と持論を展開されるか、隈さんのようにのらりくらり交わされるか、そのどちらかだと思い込んでいたのだが、そのどちらでもなかった。
藤村:『S, M, L, XL』には建築的思考のスケーラビリティについての考察がある。今の若い世代は社会全体を変えるために主体的に関わるとか、プランニングするというラージスケールについての思考をわすれていて、意見を聴けばいい、分析をすればいい、と安易に考えている節がある。『PROJECT JAPAN』は日本人が国民としてある意志を持ち、その意志を建築家がかたちにした一瞬を賛美しており、建築家に対して現実に対してもっと介入しろ、介入するツールとして建築を見直せ、というメッセージと受け取った。
では一体何が今の「日本の意志」かというと、『S, M, L, XL』の「シンガポール・ソングライン」がそれを示唆していると思う。丹下やメタボリストが日本で描いた構想を、シンガポールの建築家が実現する。その方角は今、安部政権が狙うインフラ輸出の軸になっている。日本人建築家は伊東豊雄であろうと日建設計であろうと竹中工務店であろうとその方角に動員されていて、日本の列島改造で鍛えたスキルを持ってアジアの列島の改造に従事することになっている。
国際的にみれば日本列島こそが日本人にとっての最大のビッグネス建築作品かも知れないし、これからは福島第一原発の廃炉現場こそが最大のビッグネス建築というアイロニーをどう考えるか。
レム:藤村の質問は本についての質問というよりコメントでありもう少し具体的な質問だと応えやすいのだが、なかにいろいろな論点が織り込まれているのでそれについて話す。
『S, M, L, XL』以後に何が起こったかはとても興味深い論点。まずこの本は出た時からインターネットを意識していた。本自体が、ハイパーテキスト構造であることを言っておきたい。インターネットとさらにビッグデータの存在は若者にとっては新しいライフスタイルに繋がるものだ。
他方で日本で現在見られる建築活動を見ると非常に小さなスケールのものが多い。また、集団で何かするとき、リサーチ、行動、それのすくい上げ、といった構図が見られるが、これは60年代に理想とされた姿とはかけ離れている。私は日本のこのようなスモールスケールを扱うやり方にシンパシーを感じると同時に危うさを感じる。
特に政治との関係を持てない、議論出来ないというのは退化であり、問題だ。アジアの国々には生命力や躍動感はあるが、欧米諸国同様、建築家に政治的な力がない。(=日本人建築家に対する「警告」その1)
藤村:1995年にテレビタレント・アーキテクト(政治家)である青島幸男が東京都知事として当選し、伊東豊雄がマスタープランを描いていた世界都市博が中止となった。田中角栄の列島改造論の背後にはテレビでの世論の先導があった。今日、ビッグネスを動かすのにテレビはいまだ有効かが大阪都構想で問われている。
キャス・サンスティーンがいうようにネットによる評判社会が全面化すると大衆が集団極性化する。コミュニティアプローチは「小さく」見えるが、うまくイシューを設定するとこれまでと違うかたちで大衆を手なずける方法となる。ブルームバーグがニューヨークを動かしたように。
レム:ブルームバーグは成功したと思う?
藤村:そう思う
レム:我々は時に我々の想像をはるかに超えるスケールのものを相手にしなくてはいけない。そしてその様な相手にとっては金儲けが第一優先だ。全てを圧倒する様な組織体に対抗しなくては行けないとき、今までの伝統的な手法は通用しない。背後に退いたビッグネスに抵抗することはあらゆる建築家が今までに経験したことのないこと。敢えてこの言葉を使わせてもらうなら、それはまるで「津波」なのだ。そのことを若い世代に「警告alert」したい。(=日本人建築家に対する「警告」その2)
藤村:今、日本では若い世代がコールハースさんの「警告」を受けて「スモールネスをネットワークしてビッグネスに対抗する」ことに取り組んでいるから大丈夫だとお伝えしたい。
レム:グッド・ラック(笑)!
南後:書籍についての感想。英語版は95年のメディア感覚を感じ、ネットサーフィン的に読んだが、日本語版は精読するものという印象。
質問はGoogle、facebook、TSUTAYAなどビッグデータを扱う民間企業は社会全体に影響を与え建築≒都市となりうる時代に果たして建築はどうすべきだろうか?それと1960年代の状況主義者、特にコンスタントの影響については?
レム:(日本語版は精読するものというコメントに反応して)日本語版はただの翻訳ではなく、翻訳者との長年の対話と理解の末にある。画像をほとんど挿入しなかった点が重要で、是非テキストに集中して欲しい。私は自分の職能を文筆家と定義している。建築家は通常建築家でしかいられないが、文筆家はどんな人間にもなれる(その後の質問には答えず)。
会場からの質問(1):建築家たちは建築を扱う以上、物理的に対処する必要があると思うが、現代では物理的な環境はどのように変化したと思うか?
レム:建築はその時代ごとのメタファーの具現化といえる。コンピューター業界では建築用語を用いて複雑なものごとを整理し、論理の組み立てに使う。また現代では都市と地方の関係なども物理的なものとしてではなく、むしろそれ以外の要素で考えられる。もはや物理的な段階ではないとも言える。
会場からの質問(2):コールハース氏がミースやコルビュジエなどの巨匠に並ぶ存在だと先生から聞いた。なぜ文筆家から建築家になったのか。(=「私は文筆家だ」と言っているのだがそれを誤解している質問)
レム:(学生の質問を遮って)先回りして答える。何とでも説明できるが、25, 6歳の時にロシアに初めて行き、モスクワで構成主義に触れ、異なる人生の提案をする、人がどう生きるかを考えるという点で建築家と文筆家に差はないと気づいた。巨匠とはラジカルさに大きな差があり比較にならない。
南後:建築家が何かを構築しなくては行けない義務から解放され思考する自由が与えられたのが現代ではないか。そういう観点から見ると今、日本では3.11以降の「建てない建築」や「コミュニティデザイン」が流行しているが、そのことについてどう思うか?
レム:建築が出来るのは形を与えることと、形を歪めることだ。医師は治すことしか出来ないが、建築は破壊も生産も出来る。現在の状況を見ると、この両義的な職能の有意義さは30年前より高まっていると思われる。
藤村(口を挟む):ちなみに著者としては『S, M, L, XL』をどのように読んで欲しいのか? 建築を拡大解釈するように読んで欲しいのか? これまでの建築を発展させ、押し進めるように読んで欲しいのか?
レム:そのような二択の質問はやめてくれというくらいに辛い。自分にとって一番嬉しい読まれ方は想定外の反応を得ること。今の二択はどちらも私の想定内であり、想定内である以上それはどちらでもよい。
藤村:なぜそういう質問をしたのかというと、今までの質問と会場に来ている人たちの表情を見ていると、彼らが『S, M, L, XL』を今の自分の置かれているそれぞれの立場や感情を肯定してもらいたい、そのための根拠として読もうとしているように見えるからだ。
レム:OK、次行こう! (・・・自己肯定したいという点に関してちょっとフォローするように)ここで敢えて今まで話したことのないことをお話しするならば、経験したことのない状況に直面したとき、私はいつも恐怖を感じる。そこから少しずつ勇気を集めて打開するのだ。恐怖を理解し、誠意を持って向き合うこと(=リサーチのこと?)が重要だ。
会場からの質問(3):建築的思考で物事を解決する、その限界を感じたことはあるか?
レム:謙虚に「限界はある」と言うことも可能だ。強いて言うなら以前「ヨーロッパの将来像を考える」という委員会に呼ばれて出席していたとき、周囲が皆大物政治家だった時、建築はまるで通用しなかった。これをやりたければ政治家になるしかないと感じた瞬間だった。
藤村:今の答えでなぜ今日あなたが「alert 警告」という言葉を使っていた意図がわかった。この本は啓蒙書ではなく、あくまで「警告」であり、その点が自分の考えを「啓蒙」しようとしていた黒川紀章と違うところ。黒川紀章はより広く啓蒙したい衝動を抑えきれず、政治家になろうとした。・・・というわけで会場の皆さんは『S, M, L, XL+』を教科書のように読まず、警告として受け取りましょう。
レム:その通り(ちょっと安心した表情)。ありがとう。自分はモデストでありたくない。
(実際は通訳が挟まっているのでそれほどリズミカルではなかったことはお断りしておく)
打ち上げの席。あまり話せないかなと諦めていたのだが、少しだけサシで話せた。
藤村:神戸のことを知っていますか?
レム:知らない
藤村:海上の人工島に海上都市を作った
レム:いつのことだ?
藤村:1960年代
レム:メタボリズムとパラレル・ヒストリーというわけか!?
藤村:そう。神戸には水谷頴介というレイモンド・フッドみたいな建築家がいて、彼についての本を書こうと思っている
レム:それは面白い。書いたら送ってくれ
藤村:YES!(・・・今のところ日本語の予定だけど)
というわけでレムは小刻みに質問をしてネタを提供したりするほうが会話が弾む人のようだ。トークイベントもそういうふうにすればよかったと後悔。今思うと、どうせ対話なんて成立するはずもないし、相手も期待してないだろうと少し卑屈になっていた。
また近い将来機会があれば建築や都市についてのもっとハードコアな議論をしたいし、何かレムに読んでもらえるような英語の著作も出したいと意欲がわきました。
太田さん、関係者の皆さん、ありがとうございました!
追記1
この前年、2014年に上梓した拙著『批判的工学主義の建築』は『S, M, L, XL』以後(の日本)に何が起こったかについてハイパーテキスト的に書かれた本かもしれない。ただしコールハース的な「警告」も黒川的な「啓蒙」もない。強いて言えば「解説」で、毒のない磯崎みたいな立場なのかもしれない。
追記2
ビッグネスというのはコールハースが『S, M, L, XL』のなかで示した巨大過ぎてそれ自体が街になってしまっている建築の状態を指し、街の中で町並みに合わせた建築を作ろうと躍起になっているヨーロッパの建築家に共有されるアイロニーを含んでいた。私は例えば福島第一原発がそれに当たるのかもれない、と感じていたがこの日のレムにとってビッグネスとは金融資本主義のことのようだった。今だったら地球環境などがそれに当たるのかもしれない。