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【究極思考00006・00007】

【究極思考00006】

 言葉にした途端、言いたかったことは問答無用に抜け落ちていく。だから、言葉など必要ないのだと思う。しかし、言葉を使わなかったら多分、何も伝わらないだろう。常に、この中間状態に自分はさまよっているようなのだ。「語り得ないものに関しては沈黙せざるを得ない」と言う。しかし、同時に「語り得るものに関しては語り尽くさなければならない」という言説がそこには含められているとしか思えないのも事実だ。が、語れば語るだけ、語るべきものからは遠ざかっていくしかない。だから、最小限の言葉を可能な限り最小限に語ろうと思う。そこでは、ほとんど何もないかもしれない。しかし、その何もなさ自体が何か重要なものを伝えてくれると信じよう。
 何も残せなかったままで、とうの昔に還暦が過ぎ去った。だからこそ、その何も残せなかった何もなさを語るべきではないか。
 2020年3月から新型コロナウィルス対策として在宅勤務となった。それはそれで、ノートパソコンが故障しない限り、非常に有意義な状態ではある。但し見事に歓迎会などの飲み会は一切なくなった。オンライン会議もないので、面と向かって話し合うこともない。もともと自室にこもって何かをするというのが基本なので、体調や天候を気にしないで仕事をこなせるのは有難いもの。在宅作業しながらテレビを流すか、好きな音楽を流して、比較的快適に作業が可能だからだ。
 在宅作業以外の時間は、読書と作品を中心に過ごすことができるのも素晴らしい。中沢新一『精霊の王』を読んだ。中沢新一は、博覧強記で散漫に語り過ぎる傾向が強いので、論点が見え難くなりがちだが、この著作は無骨なまでに同じテーマを論じているので、反復は多いが理解し易い。宿神をテーマにして、縄文時代の古層の神々を論じて、それは、日本だけではなく、朝鮮半島や中国をも乗り越え、環太平洋的な広がりをもたらす。それは、まるで、岡本太郎が『美の呪力』などの著作を通じて語った、何もなさの凄み、石や木しかない凄みにおいて、日本の古層と言うより、やはり環太平洋的な広がりを見つめていたのを彷彿とさせる。たしかそこでも『精霊の王』の指摘と同じく、何もなさを基盤として、ケルト世界にまで彼の世界観は及んでいた筈だ。読書感想は多くは語り得ない。なぜなら真の読書体験は、読書している、その時間にしか存在し得ないからだ。それは、美術作品を語っても、真の美術体験は、美術作品を見ている、その時間にしか存在し得ないのと同様である。

【究極思考00007】

 読みたい書籍、読んでおきたい書籍が多くなり過ぎて少し困惑気味。但し若い頃から読書は好きだったけれど、ずっと読書している時期と、読書しても頭に入らなくて何も読まなくなる時期が、不定期に交互に訪れるため、徹底した読書が成立しない傾向が強かった。読めない時期は、平気で1年も2年も続く。仕事で必要なものをかろうじて読める程度だった。原因は自分でもわからない。自閉症気味の性質の為せる技か? しかし、それが改善したのか、ここ数年は、読書が続けられている。それは、非常に、有難いことだ。
 読書の傾向は、小説よりも現代アート系の批評や、文学論や哲学・思想系が比較的に多いような気がする。常に読み続けて来たと言える作家は、村上春樹の小説群、椹木野衣の批評群、内田康夫の浅見光彦シリーズ。特に村上春樹と椹木野衣は不定期に何回も読み直すことが多い。興味深く読んでも数年が経つと内容を忘却してしまうからだ。そう言えば岡本太郎も若い頃から不定期に読み続けて来た。しかし、若い頃の数回の転居時にかなりの蔵書を処分したので、場合によって買い直して読んでいるものも多い。岡本太郎や村上春樹が特にそうだと記憶する。逆に読み直したいのだけれど池田満寿夫は、ほとんどが絶版となっていて読み直すことが困難になっていて残念だ。特に10代後半から20代前半にかけては岡本太郎と池田満寿夫を読んで影響を受けたのではなかったか。
 その頃で影響を受け、後に中古で買い直したのが、宇佐美圭司『絵画論』。彼の絵画をシステムとして捉える構造主義的な思考に相当の影響を受けた。ちなみに、当時はインターネットなど存在していない時代。たとえば現代アート、当時は現代美術とか現代芸術と呼ばれていたが、2000年代以降には軽めの初心者向けの入門書から専門書まで、現代アートに限っても豊富に著作が出版され、なおかつ、ネット上では、個人やプロの解説などが散乱する現在、当時1980年前後とは比較にならない程の充実ぶりだ。
 話を元に戻そう。最近では、現代アート系の批評をまとめて読書していたのだが、更にもっと深く読もうと思って何冊も準備していたのだが、その前に幾つか興味があって読んでおきたいと選んだ書籍が意外に多くなり、少し自分なりに困惑気味。簡単にジャンルっぽく列挙すると、ユング心理学系、哲学・現代思想系、禅と仏教、『さかしま』や『ナジャ』などの小説など。予定している現代アート系の読書の前に、上記の書籍が意外に多いのだ。ユング心理学と禅や仏教は、河合隼雄や鈴木大拙などの著作を中心に、関連書籍が並ぶ。自己所有だけではなく、図書館の蔵書も駆使して読書を続けるのだけれど、たとえば、読書においては、自分に適した文体かどうか、立論の仕方が自分に理解できる内容かどうか、それは、実際に手に取り、読み進めてみないことには判然としない。期待して借りて購入して、結局は数ページから数10ページで読めなくなることも多々あるのだ。難しい局面である。こればかりは、自分との相性だと思って諦めている。特にユング本人の著作やバルトなどの現代思想系の著作に顕著。読書もまた一期一会なのだと実感すること多し。というわけで、最近は、読書と作品がメインの毎日である。

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