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人から「盗む」

スキルシェアサービスで受注した脚本が一段落したので、今度は、年末に予定されている純真舞台さんの脚本の手直しをしている。この脚本は、コロナ禍のさなかに書かれ、上演されることを前提にしたものなので、細かい設定の中に、コロナ時代の話が入っている。今そのままやってもいいのだが、時代感が出過ぎて、ちょっと苦しい。そんな部分も含めて、改めて全文を読み返しながら、台詞の微調整を行っているところだ。
 
ところで、前回のnoteに書いた、キラーコンテンツを封じて自分が書きたいもので勝負する、と書かれていたnoter(こんな言葉があったことも知らなかった)の方が、別のシリーズものを始める、と告知されていた。「○○(ペンネーム?)のnoter相談」ということで、noteに投稿しているのになかなか読まれない、どうすればいいのか?といった質問・疑問点に、この方が答えてくれる、というサービスだそうである。
真っ先に相談してみたくなってしまうが、それはそれとして、よくこういうノウハウをお持ちだなということと、それを第3者に分かりやすく解説できて、それで人を惹き付けられるのは、一種の才能だよな、と思ってしまうのだ。(別に皮肉や嫌みではない)
 
僕も、別のスキルシェアサービスで、「メンターになりませんか?」という勧誘を受けた。どうすればクライエントのニーズに合う文章が書けるのかを、ライターに教えて欲しい、ということらしかった。
ただ、僕の場合、本業(?)の脚本もそうだが、基本的には「自己流」で身に付けたスキルなのだ。それを他人に分かるようにレクチャーするというのは、土台無理な話なのである。所謂「独学」という奴だ。小学生時代から作文は得意中の得意で、よくクラス全員の前で読まされたものである。そして僕の場合、普通の作文から小説を経ずに(正確には、それっぽいものは書いていた記憶もあるが)、脚本という特殊な形態の創作物にいった。
 
僕がやっていたこと、それは、おそらく職人が技を身に付けるのと同じことだ。すなわち、「親方から盗む」のである。昔の職人は、弟子に何かをちゃんと教えることはなかったという。下働きのようなことをさせてはいたが、技術を伝授することをシステマティックにはしていなかった。だから弟子は、親方の手さばきを脇で見たり、完成品を研究したりして、自分で会得するしかなかったのである。これはおそらく、映画監督と助監督の関係にも言えるだろう。芸術系の大学や専門学校を出て、映画制作会社に入って、監督の下についていろいろ仕事をすると思うが、その間、監督が助監督に講義のような形で映画作りを教えることはないだろう。
結局は、「見よう見まね」であり、「盗む」しかないのだ。
僕の場合は、その時代に流行っていた芝居を見まくり、脚本を買いあさって読み、テレビの劇場中継もチェックする。そうやりながら、作劇術を覚えていった。実際に自分で書いたものを上演した時には、評価をフィードバックし、書くものをブラッシュアップするようにした。勿論、参考にするのは芝居だけではない。テレビドラマ、映画、小説、コンサート、ライブ、その他あらゆる芸術作品が「ネタ」になった。
 
そうしてきたことは理解していても、それぞれの場面で、僕がどうやって、何を、どう「盗んだ」のか、それを他人に伝えることは、非常に難しい。だから僕は、多分「講師」や「メンター」にはなれないだろう。「○○講座」みたいなことができない。それができれば、お金を稼ぐ手段が1つ増えるというものだが、できないものは仕方がない。
僕の半生を辿らないと、僕がやってきたことは分からないし、伝わらないのである。誰もそんな時間は持っていないだろう。手っ取り早く答えを知りたい。それが多くの人の本音だ。
もし僕が、「この技術は人に教えられるものだ」というものがハッキリしたら、いずれ何らかの形で、「○○講座」的なものを開くかも知れない。年齢から言ったら、そういうものがそろそろ1つはあってもいい。
でも、今は見付けられない。何しろ、他人様から盗んで得たもので、脚本家の僕は成り立っているのだから。

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