ここにある。
とてもとてもお久しぶりの更新になってしまいました。
振り返ってみると激動の1年とも言えるかなくらいの充実感と、疲労感と、様々な感情が湧き上がる1年でした。
noteを始めたのはちょうどコロナウイルスが蔓延した頃で、春先だったと思います。2020年4月は2年近く前になりました。あんなに先が見えなかったのに人類は確実に対応、適応をしワクチン接種まで終えているではないですか。
マスクをしている人は花粉症の人か風邪をひいた人。そんな常識も今となっては過去の話。
このニューノーマルな時代をどう過ごしたでしょうか。
久しぶりに更新に至ったのも、文章を書きたい!とようやくnoteを起動したのも心に余裕ができたからでしょうか。
忙しいのを理由にし、疲れては寝るを繰り返し、あっという間に秋が終わろうとしています。
歳を取れば時間が進むのが早く感じると言いますが本当にその通りで、何故時間軸は同じなのにこんなに体感速度に違いが出るのか誰か論文にしてそうなものなので誰か知ってたら教えてください。
更新に至った理由に話を戻しますが文章に残したいと思ったのは吉田さんのブログでした。
吉田さんは同期生薪平のお父さん。
今年はお話しすることも何度かありました。
ふとした時に自分の過去を思い出したいトキ、自分のルーツに触れたい時が来たら、私は吉田さんのブログを読みます。
同期生である薪平と共に戦った中学時代のサッカーの試合観戦記が選手とは違う保護者からの目線で書かれています。
そんな文章を読んでいるとあの時代に戻ったように胸が熱くなるのです。何回読んでも涙腺が緩くなる自分達の最後の瞬間は、紛れもなく吉田さんの文章によるものでした。
今年は自分の中でも熱くなるような一年だったのです。
だから、この熱量をなんとか文章に残して
いつか熱量が無くなりそうな時に自分を焚きつける種火にしたいのです。吉田さんの文章のように。
また、現在関わっている子供達が大きくなって私が現役じゃなくなった時にあの時に何があったかなんて自分の口から伝えるのも野暮なものだと今は思っているので、興味を持った誰かがこの文章に辿り着くように残しておきたいです。
2021シーズンを終えて
私が所属する、地元クラブ『アザリー飯田』は長野県飯田市を拠点とする地域クラブです。
中学生の頃からお世話になり、高校〜大学を経て社会人になり飯田市に帰ってきてお世話になっています、
トップチームと呼ばれるカテゴリーが社会人チームで、OBと呼ばれる私のような選手や、飯田下伊那出身のサッカー好きが集まって活動しています。
そこにジュニアユースと呼ばれる中学生年代
ジュニアは小学生年代
女の子達はフィエット、未満児をキッズと呼び
大きく活動を広げています。
自分が中学生の頃、今から11年も前になりますがその時代にはまだここまでの規模で活動はしていませんでした。
クラブ発足は1995年、私が産まれた年からこの地域にはアザリー飯田というクラブがあったのです。
26年経った2021年、トップチームは念願である長野県リーグ1部を初優勝という目標を達成することができました。
飯田下伊那というバックグラウンド
優勝の話をする前にこの飯田下伊那という地域のバックグラウンドをお話しさせてください。
飯田下伊那はサッカー不毛の地と言われていました。
詳しく言えば南信と言われる長野県(信州)の南に位置する地域全般を南信と言いますが、南信はサッカー不毛の地と言われる地域でした。(10年以上も前の話で今はそんなこと言われていないかもしれません。)
ここからは私自身の主観になってしまうので気分を悪くする方もいるかもしれません、でも実際体感した感想です。
嘘はつけないので素直に書きます。
南信、特に飯田はサッカーを知る人がとても少ない地域だと感じました。サッカーをやっていた人ではないです。
サッカーを知っている人です。
僕の恩師である上沼会長は、高校を出てブラジルへ渡りました。今でこそヨーロッパがサッカーの最先端と言われる時代ではありますが、当時のブラジルはワールドカップでも何度も優勝する、まさにサッカー=ブラジル🇧🇷でした。
上沼さんは現役選手として単身ブラジルでプロを目指しサッカーをして、飯田に戻ってきました。
口で言うは易しです。
本場でサッカーを体感してきた上沼コーチに
中学生の頃はサッカーについてすごく勉強させてもらいました。まだまだ15歳の私には球蹴りサッカーしかできませんでしたが、一緒にサッカーしながら自分もサッカーとは何かというものを体感していたんだと思います。
宮下監督もサッカーとはどういうものか、本質を理解し常に私たちに落とし込んでくれました。
10年経った今でも色褪せることのない本質、基礎を落とし込み続けてくれました。
個人的には、人としての部分で何度も指導を受け学校の先生よりも真摯に怒ってくれたのが宮下監督でした。
人からの見え方、自分が周りに与える影響、自分が謙虚さを失っていた時に常にサッカーと向き合えるよう道を正してくれました。
当時の麦島コーチ、原田コーチ、庄司コーチ、佐々木コーチには感謝しかありません。
私はサッカーの前に球蹴りサッカーがあると思っています。
頭を使わず、サッカーの本質を理解しないサッカー。
それが球蹴りサッカー。
ボールの扱いが上手でもサッカーがうまいと言いません。
サッカーというものを理解して、頭と身体を連動させて
判断を伴ったプレーをする。それがサッカーです。
この理解の遅れがこの地域でなかなか戦えない大きな理由だと私は考えています。しかしこれを子供達にどう理解させてどう落とし込んでどうプレーさせていくのか。
それが指導者の大事なところなのだと26歳にしてまたサッカーというものに向き合う日々です。
これを10年以上も前からこの地域で球蹴りからサッカーへと指導する人達がいることで今があることを、多くの人に知っていてほしいのです。
もちろんジュニアも同じで、岡庭コーチをはじめとしたコーチ陣によって築いたアザリー飯田の基礎があってこそ、現在のアザリーがあるのです。
長野県リーグ1部初優勝
2020シーズンとほぼ変わらぬメンバーで挑んだ2021シーズン。シーズン開始を告げるカップ戦はことごとく敗戦。
噛み合わない。
もちろんオフシーズン明けであるからそれは致し方ない。
世間の情勢的にも、リーグ戦をやらせて貰うだけでもありがたいと思っていた中で県外や外部のチームともトレーニングマッチをなかなか組めず、リーグの開幕を迎えようとしていた。
また、チームには物理的な問題があった。
飯田市内在住ではない選手が4〜5名いるためトレーニングで合わせるということがなかなかできない。
その中でトレーニングマッチをしチームの成熟度をあげリーグ開幕を迎えていった。
アザリー飯田トップチームには、飯田市外の選手が3名所属している。3番三村颯、4番高木基、16番山元健志。
松本、塩尻出身の彼らだが私の自慢の後輩である。
東京都市大学塩尻高校時代に切磋琢磨し、喜怒哀楽を共にしたかつてのメンバー。
人間的にも素晴らしい彼等が大学生を終え長野県に帰ってくるとSNSで見かけてすぐに声を掛け、力を貸してくれている。練習は一緒にはできないが試合であれだけのプレーを見せられる素晴らしいポテンシャルを持った選手達、そしてアザリーの地域活動に地元ではないながら参加してくれる人間性は是非見習ってほしい。
新入団選手は飯田出身で松本国際で3冠を達成した長身DFの19番小山成格。
東京都市大学塩尻高校の後輩でアザリーJyユースOB、愛称はアドリアーノの11番壬生和希。
2020シーズンのメンバーに新たなメンバーが加わり
若さと、勢いをもったチームとなった。
そんな中チームは
3-1 ○ トップストーン
3-0 ○ 諏訪FC
3-1 ○ MJ's club
3-3 △ FC MATSUMOTO
5-1 ○ 中野エスペランサ
1-0 ○ FCアビエス
3-0 ○ M.A.C SALTO
負けなしでリーグ優勝!
わずか6失点という堅守。
得点王も24番の塚本潤選手
5得点という少なさではあったがチーム全員が
点を取れるチームでもある証拠でもある。
21得点6失点で優勝🏆
このチームの素晴らしいDFラインの2CBをご紹介。
今年度副キャプテンとして指名した
5番 筒井淳貴選手
筒井選手は長野出身ではない。
岐阜の名門 帝京大可児高校出身で信州大学に進学し
長野へ。そして縁があり社会人として飯田での配属になったのち、アザリーへ入団してくれた。
信州大学サッカー部のキャプテンであり過去には岐阜国体にも選ばれていた。若さに似合わぬ泰然自若ぶりは、私より歳上かと思うほどいつも冷静に物事を判断してくれる。
彼の存在はアザリーを前に大きく進めてくれた。
ペアを組む6番 束浩樹選手はアザリーJyユースOBであり
都市大塩尻の後輩で、三村選手たちと同期。
私の一個下にあたる年代は高校選手権を制覇し全国へも行っている。さらに松本大学へ進学するとすぐ試合に出ていた
そのポテンシャルは計り知れない。
アザリー生え抜きであり、クレバーさ、そして技術を持ち合わせた選手。
この2人を中心としたDFラインは非常に計算できるラインだった。守備において計算が立つかどうかというのは非常にゲームプランにおいて大事である。
今年度のDFラインを崩せるチームは県内ではなかなか見当たらないはずだ。それくらい完成度が高かった。
そこに加えてメンバーの層も厚くなり、今シーズンの結果に結びついた。
まだまだ紹介したい選手が在籍してくれているので近いうちに紹介したい。
とにかくチームの若さもありながら90分戦い続けることができるチームであったのは間違いない。
経験不足をなんとかカバーしながら戦い抜いたシーズンだった。
ホームゲームとなったMj's clubとの試合は100人近い観客が松尾のホームスタンドに来てくれた。
たかが長野県リーグ1部。けれども飯田を代表して戦っていること、そして地域の人が応援してくれることを選手が身をもって感じた大切な試合だった。
交代する選手に拍手してくれる子供達、観客。
アマチュアの、しかも街クラブでこんなに応援されてプレーできる素晴らしい環境、他にはない。
アザリー飯田は、ここにある。
吉田さんが11年前にブログで書いてくれた言葉を勝手に引用させてもらった。でもそう感じる瞬間だった。
タフさ
今シーズンも例年と違わず、怪我人が多発した。
やはりシーズンを戦い抜くのはなかなかタフなのである。
プロは身体を鍛え抜いて試合に臨んでいるが社会人リーグは仕事をしながら休日にサッカーをする。
人によっては身体のケアまで手が回らない選手もいるだろう。シーズン終盤には筋肉系のトラブルだったり、靭帯、疲労など各選手が様々な痛みを抱えて戦った。
もちろん自分自身もそうだったが、負けられない試合のために無理をしてでも試合に出る。ということができる順位につけられてリーグを戦えたことはとても素晴らしいことだということを認識しないといけない。
怪我だけをピックアップすればもちろん無理をすることは大人らしくないし、愚かな行為だと考えている。
だがしかし。だ。
今シーズンに限った話をすれば私自身のサッカー選手生命の終わりを少し考えたシーズンになった。
この痛みは治りそうにない痛みだなとか。
でもそれを押して試合に出てしまったり。
前に書いた前十字靭帯断裂の経験から、怖さというものが常に付き纏うようになっていた。
それでも試合に出れない悔しさを忘れることはできなかったし、それを後悔と呼ぶのも十二分に理解できていたから通院しながらシーズンを戦い、終えた時にはホッとした。
サッカーをできることはとても幸せだ。
26
終わってみれば充実したシーズンになった。
これまでのサッカー人生においてキャプテンという役になってきたことはなく、自由に好き勝手プレーして責任というものを背負うこともなかった。チーム状況は変わり、半数が私よりも歳下の選手、若いチームとなり26歳で中堅になってしまった。
好き勝手意見を言うのは変わらないが、上沼さんと筒井選手が常に冷静にサポートしてくれて、道を間違うことなく進めたと思う。
個人的な話で申し訳ないが、優勝というものとは無縁のままサッカー人生を終えるのかと思っていた。
中学の頃には長野県リーグ1部準優勝
高校でも長野県リーグ1部準優勝、選手権も準優勝
勝つために何をすべきかはわかっても
準優勝と優勝の間にあるほんの少しの要因が
なんなのかわからないままチームを作ってしまった。
それでも恵まれたメンバーのおかげで結果がだせた。
本当にみんなにありがとう。
上沼選手兼会長との夢はピッチで共に闘うだけに終わらず、長年の目標である県リーグ優勝を叶えることができた。
これはOBができる恩返しの一つ。
自分以外にもアザリーJrユースOBが10人も所属している。
(↓不在は吉田薪平、黒河内達也、岡本駿太、吉森佑太)
矢澤日向、岡本能知、束浩樹、壬生和希、上沼選手兼会長
春日大祐、本島龍二、矢澤龍晟
飯田に根付かなかったサッカー文化をなんとか根付かせようとコーチ陣が時間をかけて育てた子供たちが大人になり結果をだしたということ。そして今度は私達が新しい可能性を地域に根付かせていかなければいけないし、飯田下伊那でアザリーというクラブが築き上げてきた26年を終わらせてはいけない。
11年前に自分達に投資してくれた時間分を返せたかはわからないが、アザリーという街クラブを前に進めていくために出来ることを頑張りたい。
アザリー飯田はたしかに、ここにある。