迷妄の鎖
重力にさからう苦しさが愛おしい。
自動ドアから外へ出たその瞬間、体内に鮮やかな大気が駆けめぐった。冷気が鼻から気道をとおって肺を洗い流す。俄かに右眼がひんやりとしてぼやけた。
思わず僕は頭上を見あげた。うす明るい夜空から、めくるめく無数の粉雪が舞い降りていた。
──初雪。
街の景色に季節の境界線がスッと引かれた。乾いた雪が日常の面影を深々と塗りかえていく。雪は人通りのない路地や建物の屋根、看板など、至るところに積もりはじめていた。信号待ちの車のヘッドライトが、ななめに降りおちていく雪の姿を浮かび上がらせている。
車道のアスファルトは平らではない。タイヤですり減った二つの線にうっすらと長い水たまりができていた。唖然とした細流に、信号のあかりがぼんやり滲んでいた。バス停シェルターに設置されたベンチが目にとまった。うっすらと雪に覆われながら小さなベンチは誰かがくるのを待っていた。寒さにやせ細った樹木の枝は、無数のあばら骨のようだった。凍った炎のようにおびただしい枝が天を突き刺していた。
雪に彩られていく景色のなか、僕は帰路をたどった。濡れた歩道はいっそう黒く、わきのほうだけが白くなっていた。足を一歩踏みだすたびに、心臓の鼓動がドクンと鳴るのを感じた。
そのとき不意に、背後から一人の男が僕のかたわらを追い抜いていった。傘もささずポケットに手を突っこんだまま、その男は淡々と雪降る夜道をひろっていく。吐きすてた宣告のような、黒いコートの背がみるみる遠のき、ついに白い闇に溶けていった。
少し向こうの左側の路地につぎつぎと車が吸い込まれていく。うなだれた街灯が次第にぼやけてかすむ。小高い山の彼方にかすかにみえる電波塔が、あおざめた夜のなかに姿をかくす。周囲のビルも家屋も視界からくずれるように消失していく。
マンションの玄関にたどりつくと、傘をとじてコートについた雪をはらい、エレベーターに乗った。上昇するエレベーターのなかで僕は、重力に逆行するわずかな苦しさを感じつつ、その向こうに、黄金色に染められたまばゆい異国の地を夢みていた。そして断末魔の祈りの果てで、屹立する意志にからみつく迷妄の鎖を断ち切った。
エレベーターを降りて玄関までの外廊下を歩きながら車道を見下ろした。階下の外灯に照らされ、ほのかな光を帯びた細雪が舞い落ちていく。冬の息吹にあぶられた地面のうえで、雪片の絶唱が夜のしじまに轟いていた。
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