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製造業の事業承継の事例(パート①)
こんにちは!中小製造業応援団のたつみです。
ずっと前から中小企業の課題である事業承継。私は取締役をしていた辰巳工業で、3回トップの交代を見てきました。1回目は小学生時代なので、正直わかりません。その後の2回は自分のことも含めて色々考え、動きもしてきました。さらに1回、最近会社を買収したので、それも合わせて3回連載で整理します。今考えてもヒントになることがあると思います。一部身内の恥をさらすような内容も含まれますが、そこはサラッとでご容赦ください。
辰巳工業ってどんな会社?
辰巳工業株式会社は、ステンレス特殊鋼を中心とした鋳造を行う会社で、従業員数50名程度(2020年4月時点)の小さな会社です。大阪府茨木市にあり、3Kの代表のような鋳造業でありながら地元の茨木市より「働きやすい職場作り推進事業所」に認定されており、業界内では平均年齢もかなり若く(なんと現場はギリギリ20代!)、元気な会社と自負しています。
「多材質+小型複雑形状+小ロット+短納期」が強みで、材質は業界でも異例の年間100種におよびます。砂型鋳造でありながら非常に複雑な形状の鋳造を得意としており、一品モノの鋳造依頼にも対応しています。
また11月よりダイキャスト鋳造の金型事業を買収して新規事業としてスタートし、総合鋳造メーカーを目指しています。その他にも3Dプリンタによる型の制作や大学との鋳造の超高速シミュレーションなど新たな技術への取り組みを続けています。
ここまで来るのは並大抵ではなかったです・・・。
辰巳工業の沿革と創業者時代
辰巳工業は私の祖父が1957年に創業した鋳物工場です。祖父は耳が聞こえにくくて障害者として認定されていたため、第二次大戦の兵役を免除されました。当時、若いのに戦争に行っていないと身の置き場がなかったため、大阪の茨木市の山奥にこもり、鋳物を作ることを始めたそうです。そして1957年に辰巳工業株式会社として正式にスタートしました。このあたりは26年前に祖父が亡くなってから祖母に聞いた話で、事実かどうかは実はわかりません笑
昔から社員の人や中小製造業の社長さんが家に遊びに来ていて、小学校の頃からその人たちと麻雀とかしていました。恐らく小学校高学年ぐらいに祖父から父へ社長を交代したのだと思います。とは言っても祖父は元気でしたので、まだ実権は祖父だったのだと推測します。ここの交代は聞くところによるとスムーズに進んだようです。父は最初から二代目として入社し、継ぐことが確定した中での社長交代でした。
ちなみに小学生の頃、私は鍵っ子でした。妹と弟がおり、兄弟3人の子育てが少し落ち着いた頃から母が辰巳工業を手伝うようになりました。当時(40年ほど前)は経営が傾いたりすることはあったようですが、一旦少し落ち着き、好景気に乗っていました。その後、今回の主旨とは違うので書きませんが、色んなトラブルや経営危機がありましたが、私はそういったことをさほど知らずに大学まで進学させてもらいました。
事業承継①:父を追い出し、母へとバトンタッチ
私が大学生の時に、バブルがはじけ、祖父が亡くなり、阪神大震災があり、一気に辰巳工業の経営が悪化しました。簡単に書けないぐらい色々ありました苦笑
売上は減り、某都銀からは貸し剥がしに会い、阪神大震災で直接建物などの被害はなかったものの物流がストップし、父が連帯保証人になったものでトラブルが発生し、、、書いていると、この新型コロナウィルスの影響レベルのことが起こってたような気がしますね。
父は典型的なお坊ちゃま二代目でした。最初から二代目が確定していて、決して裕福ではなかったですが扱いは若旦那。父が経営者になった頃は好景気で、元々経営学のような知識と技術は好きだったので、今の苦労している社長の方々と比べると大きな苦労もなく社長をやっていました。それが苦境になってもあまり変わらず、町の発明家のようなものを作っては実験するなど、苦境を乗り越える経営ができませんでした。経営が苦しいときに鋳物屋の社長が「遠赤外線で美味しくなる!」とか別の技術の商品を真面目に実験しているとビックリしますよ笑
内部ではどんどん母が改革を始めたり、苦しい資金繰りの対応(経理担当だったので)をしていました。私はその頃、新卒でシステムの会社に入り、当時のこの業界はブラック当然だったので、馬車馬のように働いていました。ですが、私が継ぐ可能性もこのときはあったので、2000年に取締役に就任(形式上はそれより前)し、不定期に辰巳工業の経営会議(という名の相談会)に出席していました。
ある日、母から「もうお父さんでは厳しい」と相談を受けました。私は大学以降、途中の数年を除いてずっと東京にいます。深刻な雰囲気だったので、その週末にすぐ大阪に帰って母と話しました。
不況に入り、なんとか維持していた経営も決して楽ではありませんでした。当然、放蕩経営の父に対して従業員の不満も溜まります。経営努力どころか変な実験など不要不急な経費を使っていましたので当然です。しかも当時20名ちょっとでしたが、現場の人に信頼されるほどは現場を知らなかったんです。
で、引退して欲しいがどうしたものかという相談でした。
結論を書くと、私が再度大阪へ戻り、直接父へ引導を渡しました。
このときの状況を整理するとこんなところかと思います。
①父の引退は立て直しに必須だった(と思っていた)
②後継者は母しかいないし、主なステークホルダー全員がなんとなく合意していた(歓迎ではないが、選択肢としてそれしかない)
③引退の要件は、誰かが父に明確に引退を納得してもらうことと、同時に引退後の生活も提示して合意を得ること
④言うべき人がプライベートでは妻という立場なので厳しかった
言える人は私しかいないなと思いました。本気になって言えて、かつ離れて住んでいるのでスケープゴートになっても問題は小さい。面と向かって「引導を渡して」と言われたわけではないですし、大きくは期待されていたわけでもなかったと思いますが、どう考えても私しかおらず、父に明確に伝えました。
引退後を提示して納得してくれたこともあり、意外とスムーズに事は運びました。母は社長就任後は大変でした。母が継ぐしかないのは分かっていたものの、職人さんが大歓迎だったわけでもありません。信頼を得るために364日会社に行って現場作業もしていましたし、引き継ぎが難しかった(夫が元気なのに引退する、と夫婦揃って挨拶回りできない)ので、顧客や金融機関の大半を自分でアポを取って回って・・・。
結果、いつの間にか社内や顧客へはカリスマ社長と見られるようになりました。それだけでなく、鋳造業界では非常に珍しい女性社長、経営再建を果たした女性社長、といった物珍しさから露出が増えてブランディングができ、力のある顧問を招聘できるようになり様々な経営改革を行い、ある程度安定した経営になりました。
事業承継①:まとめ
「こんなのクーデターだし特殊」と言われそうなので、あえて一般化してポイントを整理してみます。
①後継者が育っていた
②社外取締役がいて、ガバナンスが効いていた
③取締役全員が会社の将来を本気でぶつけ合った
①後継者が育っていた
父は私のことは後継者と考えてくれていたと思いますが、母のことはそう考えていませんでした。しかし母はものすごく積極的な性格で、どんどん自分から仕事をして勝手に育ちました。苦しい状況の時に金融機関に頭を下げたのも母です。覚悟を持って経営危機を救った経験が後継者にさせたのでしょう。父の引退の頃には、誰が見ても母が後継者のポジションでした。
②社外取締役がいて、ガバナンスが効いていた
私は当時、経営コンサルティング会社にいました。親が経営者、元経営者といった人たちがいて、耳年増なだけですが経営のことは客観的に考えるようになっていました。さらに、自分の実家の会社のことはクライアントではないので、自分事として考えていました。
母親とは性格は合いません苦笑。会うと喧嘩のような感じでしたのですが、社員の人たちは父や母に何も言えません。税理士のように全くの第三者でもなく、本音で会社のことを想って物を言う取締役だったと思います。税理士には「こんな怖い取締役は見たことない」と言われてしまいましたが・・・。
③取締役全員が会社の将来を本気でぶつけ合った
スムーズに引退してくれたのは、引退後のことを提示したという理由はありますが、その内側には「会社が大切」という気持ちが父に強くあったのだと思います。社長、取締役、社外取締役の3人が真剣に会社の将来を話し、厳しくても前向きな道を探っていました。これは大きかったです。
それ以外にも、株の心配がないなど様々な成功要因はありますが、今回から読み取れるケースはこの3つと考えます。
(パート②へ続く)