秘密の授業: 大学生活の裏に潜んでいた発見 〜遊び編〜
大学5年間を通したくさん「遊んで」きた。
人生という長い目で見たときに、「周りの友達みんな時間がある」ということはもうないだろう。
勉強ばかりの大学生活で「遊ばない人」というのも中にはいるが、私は遊びの中で学んだこともたくさんあったので、やるべきだと思う。
友達作り
私の学部
他の学部と比べ、私の学部では、プログラム上仲良くなれる可能性が高いと感じた。
授業の中でもグループワークを推奨されていたし、「実習」や「ゼミ」の授業ではチーム活動をすることが多い。
ある授業では、「人と話せる機会」を作るためか、くじ引きでランダムに座らせ、その人とペアを組んで話し合うみたいなこともした。
話すつもりもなかった人と半強制で話すことによって、意外な発見もあり、初対面コミュニケーション能力も高くなる。
他の学部にも共通して、バイトや部活でコミュニティを作れたことで、比較的多くの学内の友達が出来た。
人を見分けること
最初の友達作りの時期は誰でも不安だろう。そんな相手の気持ちを考えて、自分から積極的に話しかけることを意識していた。
話しかけ、共通の話題を見つけ、少しずつ相手の事を理解していく。最初の段階では「相手に合わせる能力」を存分に発揮していた。そして下記の記事にも書いたようにその能力は小さい頃から養われていた。
でも、心の中で「誰と深い中になるべき」か選んでいた。特に最初の4月、5月は「話しかける人」も少し選んでいた。その人が「自分と会うか」ではなく、いわゆる「グループの一軍かどうか」みたいな判断基準で選んでいた時もあった。
今思うと、それを見抜く力は無かったなと思う。
第一印象はイケイケで面白いやつでも、数ヶ月経つと「あれ、なんかこいつ違うな」と思ったりもした。
4、5月学部の人気者だったやつも、半年経てば状況全く変わる。その地位を求めて仲良くなろうとすることは極めて危険なことだと感じた。
女子も多かったし、当時の私はおそらく「人気者」になりたかったのかもしれない。
なんで「陽キャ」か「インキャ」で分けたがるのだろう?そんな疑問は当時感じず、ただただ前者になれるよう、もがいていた。
1年時に意識してたこと
部活をしていたため優先順位はそこが1番高かったが、遊びを通して学部の
友達とも交流を深めたいと思っていた。
実家生であったことから少し厳しかったが、誘いを断り続けると「ノリが悪いやつ」と思われると思い、できる限り参加した。夜遅くに呼び出され、実家から車で行った日もあった。
だから友達の家にもよく泊まり、それが友達と仲良くなれた1つの要因になっていたのかもしれない。
友達って何?
私自身、「面白い人」と仲良くなることが多かった。
これは interestingの方じゃなくて funnyの方。
笑い合って遊んだり、話すことは楽しいし、シンプルに元気を貰える。
そんな人を魅力に感じる分、自分も「面白くある」事を意識していた。
だから、何となく「友達といること」と「真剣であること」は正反対として考えていた。
もっと具体的に言うと、
「友達」とは笑い合える存在であり、「面白さ、人を笑わせること」を優先する。よって、真面目な話はしない。だって、真面目な話は面白く無い、「え、なんでそんなに熱くなってんの?笑」って冷めた目で見られるのものだと思っていた。
「真剣であること」とは、大学でいう部活だった。
勝つために本気で意見を言い合い、真面目な話をして個人・チームとして成長していく。常に熱く、時には怒ってお互いに成長していく。funny じゃなくて、interestingを追求するグループだと思っていた。
一言で言えば、遊びは「息抜き」、部活は「勉強」というイメージだった。
友達の概念がぶち壊された
人間力の高いグループ
結論から言うと、友達の中で、「空気を読め合えるグループ」が出来た。
「遊び」の中で、いわゆる「グループ」みたいなものができるのは当然のことかもしれない。
しかし、「グループ」にいる事は、誰かを省くことと密接に関連している気がして、個人的にあまり好きでは無い。だが、このグループでは「固まる」ということはあまりせず、他の人も寛容に受け入れていた。
そのメンバーが軸となってはいるのだが、「友達の友達」としてその輪に
入れ、入れられたメンバーがストレスの無いような環境を作るのも上手かった。
優しすぎるが故の危険性
そのような人間力の高い人には今までにも出会ってきた。しかし、彼らが持っている「寛容な心」は時に、彼ら自身を殺すことにもなっている。
周りに合わせれるが故に「何でも良いよ」と言ってしまう。また、大人になっていくと、そうなる傾向はどんどん強くなる。
自分の意見を言うと、何だか自我が強いやつみたいに思われるのが嫌なのかもしれない。
私もずっとそうだった。
人間力+α
私自身、「友達」という概念がぶち壊されたのは、そのグループに
「本気・正直に発言できる人」がいたからだと思う。
彼は良い意味でも悪い意味でも正直だったから、俺を含めたみんなが彼の言ってることを理解できた。
そして、友達関係において、「100%空気を読む事は無理」だと思った。
何だか今まで、人間関係において、「自分の本性を隠して、相手を動かす」みたいな事を美学として持っていた。相手の発言に対して、こう言ったら
こうなるだろうみたいなのを予測して相手を動かせるような人。
そんな人が友達にいたから、「そうなりたい」と憧れの気持ちがあった
からだった。
でも、俺には無理だった。全く予想通りにもならず、相手の発言の裏を考えすぎて何が本性なのか全くわからなくなった。
そして私の的を外れた発言、行動は時に人を傷つけ、自分の評価を下げることにも繋がっていた。
自分が思った事は口に出さないと行けないし、恥ずかしいかもしれないけど伝えた方が良いと思った。
そうすることで相手も自分の事を理解できる。自分がオープンになると、相手もオープンになってくれることがある。それこそが信頼関係なんだと思う。
大切な友達がいることの安心感
他に友達が出来なくてもそいつらがいる。無理して嫌な奴と仲良くしようとしなくて良いという気持ちで初対面の人と話せるようになった。
特に海外に行った時はそれがあったから日本人のコミュニティを避けるが出来た。
元々、人に合わせ続けてきた人生だったが故に、そのマインドを新たに持てた事は精神的にすごく楽になった。
そして、「自分の気持ちを発言することは恥ずかしいことじゃ無いんだ。理解されなくても、俺には他の友達がいる。」と強い気持ちを持つことが出来た。
まぁ、シンプルに自分が初対面でされたく無いことだけはせず、切るところは切ってこれからもコミュニティを広げていけたらなと思う。
みんな性格違うし、価値観も違うんだから「合う人・合わない人」が居て当然。自分に正直に生きていこうと思う。