地元の水族館が閉館するので久々に行ってみたら、想像よりガチだった話
僕の地元には、水族館がある。
幼い頃に家族に連れられて行った思い出はあるが、正直なところよくある田舎の水族館だと思っていた。
そんな水族館が今月末で閉館することになったので、小学生の頃ぶりに行ってみることにした。
ところが、こうして大人になってから行ってみると、これがだいぶ「本気」めの水族館だったことに気付いたのだ。
海洋大学が直々に経営する水族館
水族館の正確な名前は、「東海大学海洋科学博物館」という。
その名の通り、海洋大学が運営している水族館なのだ。幼い頃は自然とそういうものかと受け入れていたが、全国的にはあまり例を見ない形態の水族館である。
しかも、より厳密にいえば、水族館というよりは「海」についての博物館であるらしい。
この時点ですでに「本気度」がちがう。他の水族館が魚を見ているなか、彼だけはそのおおもとの「海」を見ているのだ。ただものではない。
とはいえ、「海」についての博物館といっても水族館と何が違うのか。そう考えていたが、これが結論から言うとまったく違ったのだ。
しかし、この水族館が今月末(2023年3月31日)をもって閉館するのだという。
そういうわけで、見納めとして水族館に寄ってみることにした。
地元ではおおざっぱに「三保の水族館」とか「東海大水族館」などと呼ぶことが多いので、本稿でもそう呼ぶこととする。
この水族館に最後に僕が行ったのは、小学生の頃だったと思う。実のところ記憶はおぼろげなのだが、はじめて見る大水槽のインパクトや、カクレクマノミのかわいさだけはしっかりと覚えていた。
それだけに閉館というのも淋しいなーとは思っていたのだが、このときはそれほど大した感情は抱いていなかった。
水族館は、駿河湾に突出する巨大な砂嘴である三保半島の突端に位置している。そういうわけで到達するにはぐるりと湾を廻りこまなければならず、若干時間がかかるのが難点だ。
(観光客は対岸の清水港から出ている水上バスを利用するのがオススメ)
ちなみに僕は途中で郵便局に寄った結果、大いに迷って時間をロスした。意外に広い半島なのだ。
水族館に着く。閉館のニュースを聞きつけてか、意外にもそこそこ来館客で混みあっていた。
僕も懐かしさ半分、物見気分半分でゲートを抜ける。
いきなりリュウグウノツカイ
水族館に入り、チンアナゴなどのかわいい展示コーナーを抜けるとたちまち大水槽をとりまくホールに出る。
大水槽はこんにちの水族館とくらべると決して巨大ではないが、ホールが狭いこともあってかなりの迫力をあたえる。
思わずノスタルジーが刺激され、すこしの間呆然としていた。
大水槽まわりの雰囲気もよく、水族館として百点満点である。水族館まで急いだこともあって疲れていたので、大水槽を眺めながらしばしのんびりと歩を進めることにした。
だが、そのホールの壁にならんだ展示物から違和感を覚え始める。
最初の展示物が、いきなりリュウグウノツカイの標本なのだ。
長い。
しかも、2体ある。
リュウグウノツカイとは、太平洋に生息する深海魚である。その名の通り、世界最長の硬骨魚類とされるその不思議な身体が特徴だ。
もちろん、おもしろい魚ではある。だが、たとえるなら地方の劇場でひっそりお笑いファンにウケている若手芸人くらいの立ち位置の魚だ。決してクラゲやカニのような中堅芸人には勝てない存在なのだ。
それが、水族館に入って1分で出会えるのだ。いわばゴールデンの9時台の番組にいきなりねじ込まれるようなものである。
異様である。
じつは、この標本についてはおぼろげながら記憶があった。当時の自分はそういうものかと流していたのである。
今になってみると分かる。入って1分でリュウグウノツカイを突き出しと言わんばかりに展示している水族館は、やや異様である。
この水族館、なんだかわからないが海にたいして「本気」だ……そんな感覚が胸に浮かぶ。
それに続いて、ラブカの幼体の展示がわれわれを待ち受ける。
ラブカの標本を展示している水族館も珍しいというのに、その幼体である。
おまけに、このほかにもラブカの成体から卵嚢から、ありとあらゆる段階のラブカの標本がとりそろえてあるのだ。
ラブカの知識ゼロの人間も、この展示を見終わった頃にはラブカのすべてを知り尽くしていることうけあいだ。ちょっとすさまじい展示なのである。
しかし大水槽を見てうっとりしに来ているカップルや家族連れに、ラブカのあらゆる段階の標本を見尽くしたいという需要があるのだろうか……?
一抹の疑念にさいなまれつつ先を急ぐ。
魚5割、それ以外5割
ホールを抜けると、よくある小水槽がならんだ展示エリアに入る。
さすがにここは昨今の水族館のような「映え」はないが、日本各地の熱帯魚や回遊魚をあつめた展示フロアは壮観で、ゆったりとした時間を過ごすことができる。
とはいえ、このフロアも十分に「本気」である。
水槽の反対側の壁には標本がずらりと並び、深海魚を心ゆくまで鑑賞できるしかけとなっているのだ。
熱帯魚を見たいという欲求と、アンコウのメスに寄生するオスなどを見たいという欲求を同時にかなえられる前例のない空間ができあがっている。この水族館は誰にむけて作られているんだ。
そうした謎の「熱」は、後半に行くにつれ盛り上がっていく。
その極致は、カクレクマノミゾーンを抜けた先にあらわれる。
あ~~~そういえば、こんなスペースあったわ!
ここを訪れた瞬間、記憶がよみがえった。
なんとこの東海大水族館、水族館の「裏側」さえも展示にしているのだ。
小学生ながらも、圧倒的なメカメカしい空間に興奮したのを覚えている。
ここらで、ようやっとわかり始めてくる。
「海」についての博物館であるということは、たんに魚を見せるということではなく、「海」にかんするあらゆるものを見せるということなのだ。
そしてそれにはこの水族館自身もふくまれるのは必然ゆえ、割り切って展示とする。
ある種の真摯さが、一貫してこの水族館を支配している。
なんだかすごいところに来ちゃったぞ。
「海」をあじわわせることに全力
正直、ここまでの展示でも十分に満足していた。懐かしさのスパイスを抜きにしても、王道の展示とその合間にくり出される変わり種の展示とでお腹いっぱいになっていたのだ。
水族館と博物館の交互浴である。きっとなんらかの自律神経に効く。
ところが、マップを見ると展示はまだ半分。さらに二階部分があるらしい。
エントランスから、巨大昆布の廊下を抜けると二階に到達する。
そこは、一階とほぼ同じサイズの空間をまるっと使ったホールであった。
そして、その内容はというと……もはや一匹の魚もおらず、純粋に「海」のあらゆる知識が凝縮された展示になっているのだ。
一気にギアを上げてきたな。
一面の空間に、「海」を知るためのあらゆる展示が詰め込まれているのだ。
まちがいない。
ここがこの水族館の「コア」だ。
最早ここまで来ると、あまりに「純粋」な空間である。
普通の水族館をカツ丼にたとえるなら、この展示ホールはおばちゃんに大量の白米だけを「ほらお食べお食べ!」と言いながら口に詰め込まれていくような場所である。エンタメやSNS映えをかなぐり捨てた極致だ。
しかも困ったことには、その白米が味わってみるとおいしいのだ。
ようやく「海」の博物館というものが何者かを理解する。
魚を見せることが目的の普通の水族館と異なり、この「海」の博物館においては、魚も標本もすべては「海」を知るための手段のひとつにすぎなかったのだ。
来館客に、「海」を伝えるためにすべてを尽くす……それは、海洋大学ならではの真摯さであろうか。
あまりにも「本気」である。
来館者に「海」を知らしめるために、すべてが全力すぎるのである。
この空間には、単なるデートスポットや家族サービスの場所にとどまらない熱量がこもっているのだ。
だが、多くの来館客は流し見で足早にホールを抜けていくのだった。
全力投球されたボールが、キャッチされることなくどこかへと飛んでいく。
悲しい!!
最後はメカ水族館
そして、水族館はラストスパートへ。
水族館の大トリといえば、そう、メカ水族館である。
え、何?
いわゆる「生物模倣(バイオ・ミメティクス)」を先取りしたような展示である。
ロボットで海の生物を再現することで、その動作機構にしたしんでもらおうという企図のようだ。二階の1/3ほどを占める広めのエリアで、無骨なメカがひっきりなしに動いているので、ただ見て回っているだけでもかなりの迫力がある。
そのうえメカ生物の種類は多彩で、十分見ごたえがある。これら無数のロボットの開発にかなりの労力をそそぎ込んだことは間違いない。
おそらく今までの展示の中で、一番「本気」な展示ではないか。
問題は、魚のかわりに大量のロボットがガッションガッション動いている光景は、あまりにも水族館の来館客が求めるものと違い過ぎている点くらいである。
自分も、幼い頃にここを訪れているはずだがこの展示の記憶が1ミリも無いのだ。不思議ですね。
たぶん後世、23世紀くらいになってから評価されるタイプの水族館だと思う。
(世界が何と言おうと、僕だけはメクアリウムのよさを理解しているからな……!)という思いを抱きながらメカ達を眺めていると、いつの間にか閉館の時間となっていた。
町から水族館が消える日
水族館を出ると、すっかり日が暮れていた。
猛烈な海風が肌寒い。
東海大水族館は、ちょっと「本気すぎ」である。
その展示のどれもが、単なるSNS映えやムード演出ではなく、本気で「海」について知ってもらおうという気概に満ち満ちている。
どれほどの苦労をかけたのか、ときには明後日の方向を向きながらも、その熱量ははかりしれない。
これほどの展示があと1週間で見られなくなってしまうというのは惜しい話だ。
とはいえ、それも時代の流れなのだろう。
きっと、この静岡にかぎらず、全国各地にこうした「本気」の施設はあるのだろうと思う。
しかし、何でもネットで5秒で知れる現代において、何かを知るための施設は今や求められていないのではないか。
そうした時代にあって、水族館に重視されるのは「雰囲気」や「映え」になっていってしまうのだろう。
ある意味では、この水族館は役割を終えたのだ。それがいいことか、悪いことかはわからないが……。
夕闇のヴェールの中で、水族館の大きな建物はすこしくたびれて見えた。
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