ウイルスとアニミズム
対話〜距離と隔たりに宿る知性
世界は、昨年から新型コロナウイルスによって翻弄され続けている。その影響は、いま社会のあらゆる分野に及んでいる。
ウイルスは、遥か昔から生物の進化に揺さぶりをかけてきた。ウイルスは、生物の親から子へという同種内での垂直的な情報伝達の流れに対して、種の違い(壁)を越えた水平の流れを作り出してきたと云われている。
今回の新型コロナウイルスもコウモリからヒトに感染したと考えられている。毎年流行するインフルエンザも鳥からブタやヒトへと感染する。ウイルスは、生物(宿主)の奥深く細胞の核に侵入し遺伝子に入り込み増殖して、細胞外に出て感染を広げる。わたしたちを含む生物は、絶え間なくウイルスの侵入を生命の最深部で受けてきたわけだ。
最近の研究では、わたしたち人間の遺伝子の約10%が、ウイルスの侵入によって持ち込まれたことが分かっている。種の違いを越えた遺伝子の伝達は、わたしたちの身体機能やおそらく知的能力にも影響を及ぼしたと考えられている。
変異を生み出す水平の流れ
例えば、わたしたちが食べ物を口に入れた時に唾液腺から分泌されるアミラーゼという消化酵素がある。理科や生物の授業で聞き覚えのある名前だと思う。アミラーゼは、デンプンを分解する重要な酵素だ。
実は、このアミラーゼという酵素は人間以外の他の哺乳類では膵臓でしか作れない。人間の唾液腺でアミラーゼが作られるようになったきっかけも、壁を越えて動くレトロウイルス(新型コロナウイルスもこの仲間)が関与していたらしい。
哺乳類が進化の過程で獲得した胎盤や神経伝達ネットワークにも、ウイルスが関与したと考えられている。もしかしたら、ウイルスについて今、このように思考できるのも、ウイルスのお陰かもしれない。
わたしたちは、これまで進化をそれぞれの種ごとの系統的な流れの中、つまり垂直の流れの中での出来事(突然変異)として捉えようとしてきた。ところが、ウイルスが引き起こす種の壁を越える水平の流れによる変異にも着目しなければならないことに、人類はようやく気づき始めた。
人類が、ウイルスの存在に気付いたのは120年くらい前に過ぎないし、ウイルスの姿を見ることができて100年も経っていない。
生物なのか非生物なのか、ウイルスはわたしたちの概念の向こう側から現れた。ウイルスは、とても単純な作り(細胞ではなく粒子)で、他の生物の細胞に入り込まなければ生きていくことも増殖することもできない。完全に他力本願の不思議な生き物?だ。
わたしたちの文明に揺さぶりをかけるウイルス
このウイルスによって、いま人間の文明は大きな揺さぶりをかけられている。たった一種類のウイルスによって、世界は一変した。文明の脆弱さが顕にされ、人類は危機に陥っている。
ここで、よく耳にするようになったのが、「新型コロナウイルスに打ち勝つ」「ウイルスを克服する」「ウイルスとの戦争」といった勇ましい言葉の数々だ。
だが、果たして、これらの言葉から人類の未来を展望することができるだろうか。勝利の先に何があるのか。わたしには、これらは人々に思考停止を促す言葉としか思えない。
ウイルスは、わたしたちが持っていた生命の仕組みや進化に関わる概念を覆し続けてきた。ウイルスは、人間に新しい発想を促し、医学に革新的な進歩をもたらした。ウイルスは、垂直的な思考で固まった人類に水平の揺さぶりをかけ、発想の転換を促した。
それは、医学をはじめとした科学の分野に留まらない。ウイルスは、わたしたちが社会の中で、気付かなかったこと、無視していたこと、隠蔽していたことを、次々と顕在化させた。
ウイルスは、わたしたちの世界を支える基盤の脆弱さ、置き去りにしてきた多くの矛盾、未来への予測の甘さなどを、次々と浮き彫りにした。わたしたちが、打ち勝たなければならないもの、克服しなければないもの、それはウイルスではなく、ウイルスが浮き彫りにした人類が抱えている本質的な課題ではないのか。
ウイルスは、敵でも悪でもない。敵や悪といった言葉は、人間の思考を固めてしまう。
その場凌ぎでは乗り切れない。
ウイルスとの戦いという言葉に騙されてはいけない。ウイルスが、わたしたちに投げかけている問いに応えなければ、やがて本当の危機が訪れる。対症療法で感染を抑え込んでも、投げかけられた問いを後回しにすれば、再び新しいウイルスが揺さぶりをかけてくる。ウイルスは、変異を繰り返し、何処かから現れ、何度でも問いを投げ掛ける。シベリアで溶け始めた永久凍土からは未知のウイルスが検出され始め、その危険性が指摘されている。
環境問題をはじめ人類が抱える問題の深刻化を止められるタイムリミットが、10年後に迫っていると世界中の科学者が、警告を発している。2030年は、人類が取り返しのつかない道に向かうかどうかの分岐点だとしている。
人類に大きな変革が求められている時に、新型コロナウイルスが現れ、世界を覆った。この出来事をどのように捉えるのか、わたしたちの思考が試されている。
制約を様式へと昇華させられるか。
ウイルスによって、わたしたちが迫られる制約。制約の奥にはどのような意味が眠っているのか。どのような意味や価値を発掘することができるのか。
ウイルスの感染対策は、人と人の距離、移動の制限、隔てる、密集を避けるなど、これらは人類が築き上げてきた文明、とりわけ都市のあり方への根本的な見直しを迫っている。新しい生活様式という言葉も聞かれるが、それが上からの規制をただ受け入れたり、高度なシステムの中に人々が取り込まれていくことを意味しているとしたら不幸なことだ。
本当の意味で、制約を新しい様式へと昇華できるのか、いま人類は試されている。
距離や隔たりに知性を宿らせる。
わたしたちが、このまま統制社会や情報管理社会へ突き進んで行かないようにするためには、新しい知性が必要だ。それは、距離や隔たりに宿る知性だと、わたしは考える。人と人、人と生き物や自然の間にあって膜のように作用する知性だ。思いやりや配慮、気遣いと言ってもいい。もうすこし詩的に言えば、遠くて温かな距離だ。
わたしたちは無知や無関心が作る壁を溶かし、膜に変える知性を持たなければならない。
(わたしは、これまで提案してきた都市の里山化を実現させる格好の機会だと思っている。)
わたしたちは、制約を様式へと昇華させていくことできるだろうか(例えば、膜の様式、膜様式の都市)。わたしたちの知性と美への感性が試されている。
新しい社会の様式として、分散という言葉をよく耳にするようになったが、分散や分散化は、距離や隔たりに知性が宿らなければ実現しない。
ウイルスは、わたしたちの都市や産業、教育などの枠組みを作る既存の概念を溶かし始めている。わたしたちは、ウイルスに概念の壁を溶かされ、拠り所を失い、本当の思考を強いられている。
生き物との対話を失った人類の歴史
問いに応えるということは、対話をすることを意味している。人類は最近ウイルスの存在を知り、ウイルスとの対話の必要性にようやく気づき始めた段階にある。だが、人類が改めて対話をしなければならない存在は、なにもウイルスとは限らない。
太古の人類は、生き物や岩、山、川など、この世界のあらゆるものと対話をしながら生きていた。石器時代の人々の信仰は、アニミズムと呼ばれている。その後、人類は農耕を始め都市を形成するようになり、多神教、さらには一神教へと信仰の形態を変化させていった。
人間が森羅万象あらゆるものを自分と対等な存在として捉え、対話をしていたアニミズムの時代から、人間が神と一対一で対話する一神教へと、人間の世界観は大きく変化していった。
一神教は、生き物と対話はしない。聖書にある有名なエデンの園追放ではイブと蛇が対話をするが、それを最後に、聖書では人間と生き物が対話する場面は描かれていないそうだ。この場面で、蛇はイブを誘惑する邪悪な存在として描かれている。
生き物達は人間と神の舞台の背景に退き、生き物達は対話すべき相手ではなくなった。生き物達は神が人間のために創造したもの、人間が任された世界の一部になった。自然も野生生物も人間が保護すべき対象になってしまった。
特別な存在となった人間を中心とした世界観は、科学の時代になった現在も本質的には変わっていないと思う。その世界観は、コロナの制圧とかコロナとの戦争といった発言に表れている。
何が悪いのか。
もし、アニミズムの時代の人々がウイルスの存在を知ることができたら、きっとシャーマンや呪術などを介して対話を試みたに違いない。もちろん、相手を悪と決め付ければ対話は成立しない。「悪い」のは相手の存在ではなく、相手と私との「関係」だ。だから、なんとかしてコンタクトを取り、話し合い、関係を改善しよう。アニミズムの人々は、そのように考えたのではないか。
悪は制圧しなければならない。悪との戦争に勝たなければならない。人類が、このような発想でウイルスと向き合い続ければ、際限の無い戦い終始することになる。
今悪くなっているのは、ウイルスと人間との関係だ。関係を悪くした原因は、森林破壊などを引き起こしている人間の側にある。発想を変えなければ、この悪循環から抜け出すことはできない。数多のウイルスが生息するこの惑星の中で、わたしたち人類が生き続けていくためには、ウイルスと対話するしかない。(もちろん、対話は、ウイルスの構造や機能を科学的に解明するだけではできない。)
対話はすべて唯一無二。
対話は、相手と自分との隔たりや距離や違い(仕切り)に意味や価値を与えてくれる。対話は、生命活動を生む膜のように作用する。対話の目的は、相手を私の知識の中に取り込むことではない。
「これは、対象を不動化させる思考であり、常に自分の尺度に合わせて考える思考である。知識を得ることを考える思考である。」レヴィナス
反省も必要だが、反省だけでは駄目だ。反省は、独白(モノローグ)であり、他者との対話ではないからだ。対話はその都度唯一無二の出会い(出来事)としてある。対話を交換することはできない。だから、対話を知識に置き換えることはできない。
対話(出来事)は起きるものであり、知識は在るものだからだ。対話は続けられなければ、生き続けられない。対話は、民主主義の基盤を成している。新型コロナウイルスの登場は、対話が失われつつある世界への問いとして、世界中で揺らぎ始めた民主主義への問いと重なる。
距離に宿る知性を破壊するグローバリゼーション。
新型コロナウイルスは、森羅万象との対話を失いながら世界に水平的な繋がり(グローバリゼーション)を拡大し続けている人類への警告として、現れて来たのかもしれない。感染拡大をとおして、対話無き水平拡大(貨幣経済による世界の平準化、一般等価性に覆われた世界)の危険性(あらゆるものが交換可能となる世界の危険性)を、急速な感染拡大によって顕在化させた。グローバリゼーションは、距離や隔たりの破壊でもある。
一方で民主主義は、人々の間にある距離や隔たりに知性を創造するプロジェクトとしてある。その知性は、多様性への理解を深めるものでもある。
距離を縮める、隔たりを無くすことは、社会の差別や格差を改善していくために必要な発想だ。また、世界中どこにも行きたい所に自由に行けることも必要だろう。しかし、それは人間が文明化した世界での話だ。神が人間に任せた(或いは、人間が神になった)世界という神話の中での話に過ぎない。その世界を、地球全体に展開すれば生態系が破壊され人間も生きていけなくなる。だが、その危機は現実化しつつある。
今も、人間は未知のウイルスと共生している猿やコウモリなどが生息する密林を切り拓き農地や街に変えようとしている。それらは、距離や隔たりに宿る知性を破壊する行為だ。そのような知性の破壊が、ウイルス感染の背景にはある。
新しいアニミズムの時代〜生き物とお話しする学習
わたしは、これまで北海道から沖縄まで350以上の小中学校で、生き物とお話しする方法の授業をやってきた。子ども達が身近な生き物たちと対話し、生き物と相談しながら地域を作り直していく学習だ。そのような学習を全国各地の子ども達と行い、これからの地域や社会のあり方を提案してきた。今あらためてこの授業をやって来て良かったと思っている。
今回の新型コロナウイルス感染の拡大は、現代人が忘れていた対話の大切さを教えてくれたのではないか。対話は、距離や隔たりを保ちつつ、距離や隔たりに知性を宿らせる行為である。対話は、人と人の間、人と自然の間に膜として作用する知性だ。
生き物と対話しようとする子ども達の心を育むことが、いっそう必要な時代になったと確信している。