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社会の壁を溶かし膜に変える中心の無いネットワーク 市民型公共事業・霞ヶ浦アサザプロジェクト(4)
第4回は、個々の人格が場として機能するネットワーク、子どもの学びが創る社会、子どもと大人の協働、私を取り戻す新しい知性などを紹介します。
分業を担う個としてではなく、総合化が起きる場として生きる。
分業化が進む社会では、部分最適の枠組みの中で、人や物が役に立つか?立たないか?と選別されていく。フルイにかけられ、役に立つものだけが残るが、今度は役に立つものから機能だけが抽出され、人工的な機能(システム)に置き換えられていく。やがて、役に立つものも無用となる。全ての人も物も、交換可能な価値として扱われているからだ。
分業化や部分最適化は、疎外を前提としたシステムだ。現在社会で、人は交換可能な価値として扱われ、人々は自分の相対的な価値を高めようと努力し、競争に明け暮れながら、問いに答える余裕も無く、拠り所(答え)を求めてアイデンティティーの創作を続け、より大きな拠り所(絶対的な答え)を求め集まり、アイデンティティーの塊(コミュニティ、共同体)を創ろうとする。
創作したアイデンティティーを自己の拠り所(答え)として生きようとすれば、問い(問いかけて来るもの)を排除し、排他的な閉じた存在になっていくことは避けられない。答えを脅かされれば、より攻撃的、暴力的になる。
このようにアイデンティティーを創作し、その安定(保存)をはかることも、部分最適化と云える。現代人は、これらの部分最適化によって社会的にも内面的にも疎外され、閉じた存在として生きている。世界は部分最適に向かい、分断を深めている。
このパラダイムを転換できなければ、人間の社会は何れ終わると思う。
自分を場として開くことで自分を見出す。
アサザプロジェクトは、人々が価値でもなく創作物でもない自己(出来事としての自分)を取り戻す場となることを目指し、中心の無いネットワークを展開している。
ネットワークの展開は、まず、自己を場として開くことから始まる。
アサザプロジェクトは、部分最適化が進む社会を転換し、全体最適化による社会を作ろうとしている。それは、自然のネットワークに重なる人的社会的ネットワーク=全体最適型社会であり、個々の人格が総合化の起きる場として機能する(開き認め合う)ことで可能となるネットワークである。
アイデンティティーの共有で得られる閉じた繋がりとは異なる、自分を場として開くことで得られる開かれた繋がりを、人々が感じとること(繋がりの中から自己が生成されていること=出来事として有る私に気づくこと)から、中心の無いネットワークは生まれ、広がっていく。
アサザプロジェクトは、ひとつひとつの具体的な事業を通して、多様な人や物が出会い、そこ(出来事)からネットワークを展開し、開かれた繋がりから公的な機能を抽出し、新しい文脈として読み替え読み直し、事業として社会や地域に具象化していく。このような流れを、市民型公共事業と呼んでいる。
開かれた知性が宿るネットワーク
このプロジェクトでは、公的な機能を浮上させる人々の繋がりのことを、共同体やコミュニティやコモンズなどとは呼ばず、単にネットワーク、或いは中心の無いネットワークと呼んでいる。
ネットワークの作り手は、立場や役割や属性によって固定された(部分最適化された)個ではない。組織に包摂されない個、良き出会いの連鎖が起きる開かれた場(出来事)となり得る、分散して存在する多様な個が、作り手となる。(分業を担う個ではなく、総合化の担い手になり得るただの人=つまり全ての人)
ここで言う分散は、知性が宿る距離と隔たりを意味する。知性は、距離と隔たりがなければ、人に宿らないからだ。だから、知性は距離と隔たりを無くすためにではなく、それらが対話を触発する多様性へと昇華させるために働く。
アサザプロジェクトは、このようなネットワーク展開を通して、縦割り自己完結していた個々の事業を、自然の繋がりをベースにした連鎖型循環型事業にデザインし直していこうとしている。
個々の事業による波及効果を、多様で分散した個や組織(異分野多分野)へと無制限に広げ、新しい文脈(自然のネットワークと重なり合う人的社会的ネットワーク)を地域に営みとして定着させ蓄積していくことで、持続可能な社会を作ろうとしている。
生活知と科学知の協働
その実現には、地域の特色を十分に熟知し、地域にある資源を自由に読み替え、組み合わせることができる「生活知=総合知」の担い手が必要となる。アサザプロジェクトは、生活知と科学知の協働によって推進されている。
これは、新しい知性を作るプロジェクトでもある。新しい知性は、自らを場として開き、そこからネットワークが広がる一人一人(出来事)の中に宿る。
人々が暮らしの中で得た生活知を生かして、事業に必要な科学知を現場に合わせ自在に組み合わせ活用(ブリコラージュ)していく。科学者や専門家の指導(縦割りの専門知)によって、人々が動かされる事業ではなく、子どもも大人も、全ての人がそれぞれの生活知(全体知)を生かして参加することができるプロジェクトを目指している。
既存のネットワークを自由に読み替えるアート。
プロジェクトの広域展開に必要な戦略が、もう一つある。
流域に既にある社会システムや、広く空間配置されている社会資源を別文脈(自然の文脈に置き換えて)で読み替えていくことだ。それは、新たな市場の開拓といった成長至上主義の発想とは異なる、持続可能な新たな次元を開くためのアート(社会による創造的な営み)だ。もちろん、商業化した現代アートではない。
それは、人々が自然の中に文脈を読み取り、自然から触発されて動き、自然へのオマージュ(暗黙知)をベースに、人や社会に働きかけ、ネットワークを展開して、社会を内部から変容させていく(壁を溶かしていく)創造的な取り組み(アート)だ。
アサザプロジェクトが目指す、自然のネットワークに重なる人的社会的ネットワークは、このようなアートによって表現されていく。
里山の生活文脈を読み替えて生かす。
流域を覆う既存のネットワークとして、きめ細かな水系がある。水系の先端部(最上流部)には、樹枝状の谷津田が1000以上もある。ひとつひとつの谷津田には、たいてい伝統的な農村集落がある。
それらの集落では、谷津田での米作りを軸に、周辺の森林や畑地、草地などを持続的に利用し維持管理する暮らしが営まれてきた。しかし、今はその多くが過疎地となっている。
過疎化の進行に伴い、里山の生活文脈が次第に失われ、水源地(谷津田や森林)の荒廃が流域各地で顕著となっている。霞ヶ浦の水源地を総合的に保全再生するには、これらの谷津田と周辺環境への働きかけ(里山の生活文脈)を再現することが必要となる。広大な流域全体の水源地保全を実現できなければ、霞ヶ浦の再生は望めないからだ。
アサザプロジェクトでは、伝統的な共同体による自然環境への働きかけを、企業など都市との交流事業や谷津田水源地間のコンソーシアム(生産相互扶助)といった新しい文脈で読み替え、水源地への働きかけとして再現している。
それらの水源地再生事業を、流域各地で実施している。流域各地で谷津田を再生し、無農薬栽培したコメを販売する株式会社新しい風さとやまも活動を始めた。また、各谷津田と集落をセットに、農業や観光、福祉、教育などを組み合わせた水源地単位のビジネスモデルを構築する取り組みも始まっている。
流域をきめ細かに覆う社会的なネットワークに着目。
霞ヶ浦流域には、様々な社会的ネットワークが存在している。地域コミュニティや生活文脈に合わせて空間配置されてきた小中学校区や公民館、商店街、チェーン店、各種組合など)が広く分布している。
それらを自然のネットワークに重なる人的社会的ネットワークとして読み替え、新たな価値や意味(問題の資源化、公的機能)を付加させ、物やサービスや人の動きとして流域に普及させていくこと(新たなビジネスモデル)ができれば、流域を覆うプロジェクト展開が可能となる。
つまり、このような質的転換ができれば、新たに流域を覆うシステムを構築する必要はない。
アサザプロジェクトでは、最初に小学校区の空間配置に着目して、流域でのネットワーク展開を行った。
新しい知性を育む
このプロジェクトの実現には、ひとりひとりの人や様々な物の背後に潜在する(同時にそれらを支えている)膨大な繋がりを感じ取り、縦割り化や部分最適化の壁を溶かすことができる、新しい知性が必要となる。
それは、縦割りのパラダイムに囚われない感性と発想で、様々な社会資源を自由に読み替え、新たな繋がりの可能性(読み直し方)を発見していくために必要となる知性だ。
そのような知性を人々が持てば、可能なものの中からの選択(役に立つか?立たないか?といった選別=部分最適化=限られた資源)から解放され、人や物や地域に潜在する繋がりという膨大な資源の存在に気づくことができる。
人は、自分を良き出会いの連鎖が起きる場として開くことで、潜在する膨大な繋がり(資源)を浮上させる方法を学ぶことができる。
アサザプロジェクトは、新しい知性を広げるために、子ども達が地域の多様な人や物を、自分の方法で結び付け、自分の方法で総合化(文脈化)をしていく学習を流域の学校を中心に行ってきた。個々の人格が総合化の起きる場として機能する(互いの特異性を認め合う)ネットワークを、子ども達自身が形成していくための学習である。
このように、本当の意味で学ぶと言うことは、学びを通して人が良き出会いの連鎖に入ることであり、学びそのものが良き出会いの連鎖になり、その人の道になるということだ。
新しい知性で流域を覆う。
アサザプロジェクトでは、新しい知性を育む学習を、霞ヶ浦流域の学校を中心に行ってきた。
この学習には、プロジェクト開始当初から、これまでに流域の170を超える小中学校が参加した。それらの学校では、霞ヶ浦再生をテーマにした様々な学習プログラムを行なってきた。
学習では、まず、子ども達が地域を生き物の目で読み直す学習から始める。子ども達は、人間が作った縦割りの壁や仕切りとは無縁な生き物の目で、地域を見つめ直し、空間を別文脈(それぞれの生き物の環世界)で読み替え、地域に眠っていた繋がりや文脈を見つけ浮上させていく。発見した新たな繋がりや文脈を、まちづくり(新しい環世界=生活文脈)やコンテキストブランドなど(問題の資源化=文脈の具象化)として提案していく。
これらの学習を通して、子ども達は様々な見え方(読み方)や文脈(環世界)があることを理解し、自分の方法で考えることを覚えていく。
この学習を通して、互いの違いを認め合い、分散した多様な知性(距離や隔たりに宿る知性)のネットワークを作っていく。
問いを共有する子どもたちのネットワーク
アサザプロジェクトでは、既存の枠組みや立場に囚われずに地域を見直す学習を、流域各地の学校で行ってきた。それぞれの地域で、ひとりひとり自分で選んだ多様なテーマに取り組む、子ども達を結び付けているのは、霞ヶ浦をどのように再生するのか?という問いの共有である。
それらの総合学習では、答え(解決方法)の共有ではなく、問いの共有から始めることで、子ども達の多様性を保ちつつ、ひとりひとりの学びを深め展開していくことができる。
分散した多様な知性のネットワークの起点には、常に問いの共有がある。
これからの教育に求められるものは、学力よりも知性、競争心よりも探究心への転換ではないか。
子ども達の学びがつくる社会
アサザプロジェクトの全ての事業は、子ども達の学習を契機に展開していく。全ての事業が、子どもと大人の協働による取り組みになることを目指している。
なぜ、子どもと大人の協働なのか。肩書きや立場に縛られた大人では、総合化や全体最適化を実現することができないからだ。
部分最適化した社会で、交換可能な価値として生きなければならない大人達が、失ってしまったものを、子ども達は持っている。子どもと大人の協働は、大人に新しい知性を芽生えさせ、大人に私を取り戻す機会を与えてくれる。
子どもは未熟な大人(管理される対象)ではない。子どもは、大人にはできない大切なことができるからだ。
大人には、常に子どもが必要だ。だから、成熟した本物の大人の中には、常に子どもが生きていている。
大人達は、子ども達に協力やアドバイスを求め、子ども達と共に学ばなければ、まともな地域や社会を作ることなどできない。だから、アサザプロジェクトは、これからも子どもと大人による協働の輪を広げていく。
次回に続く