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山,稲作文化 【ステートメント】
12/14~22にクマ財団ギャラリーで行う芸術展示のステートメント.
はじめに
昨年度,OHANA-ROBOTという畑作用のロボットを開発した.対話可能で簡単な除草をするという目標から出発し,使う人のライフスタイルをロボットに反映するという発見に至った.AIの助力により自らロボット制作や畑の開墾をして,仲間やロボットと時間を過ごす.畑のコミュニティという場に未来のAIロボットを取り入れた豊かな世界像を示した.この発見が最も輝きうる場所はどこか.山という直観があった.それで,山に入った.
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私のミッションは畑でAIロボットを使い改良していくことだった.しかし私の目を惹いたのは,山からの湧水を贅沢にも直接引いた田んぼだった.自然栽培ということもあり,水田では多くの時間を仲間とともに過ごした.暫くして,稲作仕事が地域の祭りや年間行事と見事に連動していることに気がついた.また,古民家の納屋を覗けば稲作や山仕事の道具が一式残存しており,時折それを引っ張ってきては田仕事に使うこともあった.社会の構造や稲作様式が急激に変化した現代ではあるが,単なる主食としての米である以上に人間との関わりが根深く,総体としての稲作文化を見出した.
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そこで今回は,富山県の小院瀬見(こいんぜみ)という山村集落での4ヶ月にわたる参与観察を通じて,山の稲作文化をモチーフにしたアートを展示する.即ち,ヴァナキュラーな稲作ロボットと田んぼに入り,アケビ天狗が豊穣・繁栄を祈り,カタメニョウが語る.
1.ヴァナキュラーな稲作ロボット
展示:田植え機用のタイヤをネットのオークションで購入し,鉄板加工を外注し,アルミフレーム等で組み立てた.アクションカメラやAIデバイス搭載.
仲間と知恵を出して実験的な栽培に取り組み,植物を愛でながら原始的な農法を好み,力の及ぶ範囲で農耕をする.逆説的だが当たり前のように軽トラや小型農業機械が走っている,この軽妙なバランス感覚のもとで,AIやロボットがどのように受容され根付いていくのかという問題が面白い.
効率や生産性という言葉では回収しきれない価値が山村の農業にはある。「ヴァナキュラー」という言葉は、「土地固有の」という意味を超えて、その土地に根ざした暮らしの知恵や,専門家ではない人々の手による創造、また産業主義から距離を置いた自律的な営みという意味になりうる.しかし現代において、ヴァナキュラーな稲作とは何だろうか。小院瀬見でも、大手メーカーの農業機械を日常的に使い、スマートフォンで天気予報を確認し、農業の技術を学ぶ。一方で、伝統的な農具や農法に関心を持ち、それらを現代的に解釈しながら実践している。均質化と差異化、伝統と革新が複雑に絡み合いながら、それぞれの固有性を形作っていることが確認された。古くからの農具は、その地域の気候風土や作業様式に適応しながら、使い手たちの手によって少しずつ改良されてきた。私のロボットも同様のプロセスを経ることを期待している。使用者が自らの必要に応じてカスタマイズし改良を重ねていく。そうした過程でロボットは次第にその土地らしさを帯びていくだろう。また、生成AIなどの最新のAI技術も積極的に活用している。いまや誰もが高度なAI技術にアクセスできる時代となり,「専門家だけのものではない、日常的に使える技術」として、現代のヴァナキュラーな技術実践の一部となりつつあるのだ。このような視点は、今後の農業テクノロジーの展開に対して、重要な示唆を与えるものではないだろうか。そこに、人と自然、そして技術が調和した、持続可能な未来の稲作像を見出すことができるはずだ。
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2.アケビ天狗
展示:アケビの皮は天日干しにより生のものから火を通したものへと転換し,天狗は生成AIと3Dプリンタを用いて制作した。
日常生活における「ケ(気)」が枯れることを「ケガレ(穢れ)」と捉え、それを回復させるために「ハレ(晴れ)」の日として祭りが行われる。稲作文化の世界観では子孫繁栄と五穀豊穣が象徴的に等価とされる。今回の作品は、山に生えるアケビを女性、山に住む天狗を男性として象徴的に見立て、それらの結合による子と稲の孕みを表現した縁起物になっている.ではなぜアケビと天狗なのか.
アケビは山の中で半日向の場所を探せば比較的簡単に見つかるし,山菜好きなら収穫スポットをいくつも知っている.滞在先の庭にも実っていたのでびっくりした.ご年配の方からは子供時代に食べていたとよく聞いた.一方で,基本的に平地民には無縁無用である.至る所で甘味料が手に入り栄養に困らなくなった平地民と,自給的な生活を好み山全体を畑・採集の場とみなす山地民との対比がアケビへの関わり方に集約されると思った.また,アケビは食べごろになって実が熟すと縦に開裂し,中には白いジェリー状の実とそれに包まれた無数の種子がある.牧野富太郎もアケビの開裂した様子が女陰によく似ている様を文献を引用しながら紹介し,アケビの語源が一説ではアケツビ(=開いた性器)であることから,アケビを女陰と見ることは共通認識としてあるようだ.以上より,アケビは山地民にとって卑近であり女陰に似ているとは非常に示唆的な植物である.
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天狗はその起源を、流星や雷鳴といった自然現象への畏怖に持つとされる。その後、仏教や神道との結びつきを経て、現在馴染みのある赤い面をつけ、高下駄を履き、山に住む天狗姿に定着したものと考えられる。興味深いのは、天狗と人間との関係が非常に近しい点である。恐るべき存在でありながら、時に悪戯をしたり、時に滑稽なものとして描かれることもある。この二面性は、天狗という存在が人々の生活や信仰の中に深く溶け込んでいたことを物語っている。小院瀬見にも天狗隠しや天狗の戒めの伝承が残っている.ときに、天狗の高い鼻は男性の象徴としてみなされる。例えば飛鳥坐神社の恩田祭ではおかめと天狗が模擬性交をすることで豊穣・繁栄を祈るが、ここに限った話ではない。豊作祈願のための同等の慣習が伝えられている。
山に住んで稲作や山菜採集をしてきた私としては、アケビと天狗を結合させることは自然な発想だった。
3.カタメニョウ
展示:カタメニョウを簡易的に再現した.加えて,カタメニョウが確かに語ったことになぞらえて,地域の住人らによる小院瀬見についての記憶や語りをフィールドレコードし,藁から聞こえるようにした.
鉄鎌の出現以降,稲の収穫が石包丁による穂摘みから根刈りに変化した.脱穀までの間乾燥させる方法として,主に地干し・稲積みと稲架がある.いずれにせよ天日干しであり,米の追熟が進むことや,時間をかける乾燥のため風味が損なわれないという美点がある.現在では天日干しの自然栽培といえば米の最高峰とされるが,乾燥機やコンバインが普及するまでは当たり前のことでもあった.私は滞在中,毎日この極上の米を,山からの一番水で炊いて食べさせてもらった.
小院瀬見や周辺では,様々な人が創意工夫を凝らしてつくった稲架を見るのが愉しかった.自作の竹製の稲架台から軒先の物干し竿,ガードレール,寺の鐘つき台まで稲が干されており面白い.大量の資材が必要になる反面,乾燥の出来の良さや確実性,集約性から,明治時代以降急激に普及したようだ.現代では地域によってコンクリートや鉄製の常設稲架もみられる.
小院瀬見では作品になっているニョウは見たことがなく,展示の主題であるヴァナキュラー性=小院瀬見らしさからすれば,正しくは稲架が語るべきだったかもしれない.
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地干し・稲積みは,収穫した稲を束ねて地面に干し,高々数日後にそれらを集めて積み上げる方式である.地干しによる速い乾燥と,稲積みによるじっくりとした乾燥を組み合わせており,物理にかなっている.稲積みにはニオ,ニョウ,ススキ,ボウシ,クロ,シラといった地方によって多岐にわたる名称や方法がある.小院瀬見は富山県砺波地方に属し,タツベニョという呼称が民俗資料に記録されている.特に資材がいらないことで明治時代まで広く採用されたが,稲架掛けやコンバインの普及した現代日本において,稲ニョウはまず見られなくなった.代わりに,藁ニョウや芋ニョウなど,他の作物においては一部残っている.
幸いなことに昔の記憶や手癖をもった方がおり,小院瀬見にてニョウを作るワークショップが開かれた.身体を使って稲藁の構造物を作った.稲作技術の発展とともに消えたこの風物詩が,我々の手によって現前した.
そうしてこのニョウは「語り」始めたのである.稲作に宿る記憶や感情を呼び覚まし、人々の生活、文化、信仰、そして身体を通じた営みのすべてが、その中に凝縮されているかのようであった。
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カタメニョウが完成したとき、一人の人が静かに手を合わせるのを目にした。同時に心の中で手を合わせた人は私だけではなかっただろう.そこに込められた感謝と畏敬の念が、場の空気を支配していたように思う。ニョウは田の神に新穀を棒げるための祭壇であるという折口信夫の見解があるが、その場には言葉に尽くせないほどの超自然的な力が満ちていた。稲束を抱え、その重さを感じながら運ぶとき、私はその「命」を確かに感じた。それは単なる収穫物ではなく、生きている何かを腕に抱えている感覚だった。その行為が、まるで哺乳類としての人間が赤子を抱くときのような錯覚を私に与えたのだ。古代米の収穫は特に印象的だった。その背の高さや穂の鮮やかな色合いには、野生の力強さが宿り、美しさに息を呑んだ。そして、その稲を積み上げるという行為そのものに秘められた神秘性や感動を、私は言葉で表現し尽くすことができない。
総括
本展示では、富山県小院瀬見という山村での参与観察を通じて、稲作文化と現代テクノロジーを融合させた実践とその意義を提示した。小院瀬見における稲作は、単なる農業生産にとどまらず、年間行事や生活文化に深く根ざした営みである。この文化を現代の技術を通じて再解釈し、新たな視点を提示する試みが展開された。
稲作文化は、道具や農法、信仰、暮らし、風景、語りといった多様な要素から成り立つ。これらを体得し、再構成するには、地域に深く根ざした具体的な場が不可欠であり、小院瀬見はその舞台として最適だった。本展示では、ロボットという技術、天狗という象徴、そして稲作という風景が、それぞれ独自の役割を果たしながら共存し、地域の稲作文化を新たな形で再構築するプロセスを表現している。この試みは、特定の土地に留まらず、普遍的な問いとして広がり得る。
本作品が目指すのは、過去の文化の再現ではなく、未来を内包した新たな文化の生成である。稲作文化は固定された遺産ではなく、常に生成と変化を繰り返す営みだ。その本質を探り、新しい形での受容と創造の可能性を提案することが、本展示の意図であり、問いかけそのものである。
「技術とは我々をとりまく世界へのアプローチを体系化したものであり、それは身体を通じて表現される」という中沢新一の捕鯨論考の言葉を引用したい。私が稲作文化を身体を通じて実践することで得た気づきや感覚は、稲作の技術や象徴を再解釈する上で欠かせないものであった。この作品を通じて、稲作文化の持つ多層性と未来への可能性を考える契機となれば幸いである。
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