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アフターコロナのなめらかな社会

3月くらいから各国のコロナの状況、対策を医療という面から俯瞰的に見るようにしています。ここまで医療・行政・経済が密接に絡んだ状況はなく、リーダーの決断を元に各国ごとの医療・経済政策が実行されていくので、自然と他国と日本のリーダを比較するようになりました。

中でも印象に残ったのはイギリスのジョンソン首相。


ジョンソン6分間劇場

圧巻。目は全く動かずじっとカメラを見続ける。Brexitだなんだかでジョンソン首相には寝癖のイメージしか持っていませんでしたが、言葉だけで心動かされるスピーチでした。同じくドイツのメルケル首相のスピーチも圧巻で、アメリカ人が自国のリーダーと比較して称賛するコメントが多かったように思えます。

映画「英国王のスピーチ」みたいに専属のスピーチコンサルとかいるのかな。

感染者数・死亡率などはこれらの国と比べて、データ上ましな日本ですが、対策の初動でリーダーがこのようなスピーチを行っていたとすれば、日本もさらに団結して何か別の未来になっていたかもしれません。


ちょと待って、国家のパワーが強すぎる

あのスピーチを見てしばらくは「ジョンソンやるやん。」とスピーチで民衆の心を掴み、速いスピードで危機に対応していく姿にリスペクトをはらっていました。


しかし、しばらく経って危機に際して権力を集中させすぎたことの危うさを感じました。民主政だった頃の古代ローマから採用されてきた非常事態という名の下に権力を集中させ、国家の動きをスムーズにする方法は、有事には効率的に働きますが、リーダーは有事が終わったあとも権力を握り続けることも出来るので取り扱いに注意が必要なので。

ジョンソン首相は退院後、移民とされる看護師の方々に感謝とねぎらいのコメントをしていましたが、Brexit派の支持もあることから、今回の一時的な権力の集中により反対派意見をねじ伏せることが容易になり、ポピュリズムや自国中心主義が加速させることに繋がるのかもと感じました。
(権力の行き過ぎをチェックする仕組みが機能したり、ジョンソン首相がコロナの経験からやっぱ自国中心主義やーめたと言ってくれれば良いんだけど)

また、経済規模が比較的小さくポピュリズム政党が席巻していること国だと、あっというまに独裁政権が誕生する可能性もあるなと。ハンガリーでは首相の任期が無期限になってしまったし。

なんとなくそのようなことを思っていたらNHKのeテレで
知の巨人がパンデミック後の潮流についての意見を述べていました。


経済、政治、思想など内容が多岐に渡った中で、ハラリ氏が民主主義についての危機感を述べていました。

コロナへの対応で独裁政権が誕生する恐れがあり、政府が危機に対し適切な舵取りをするには国民の監視が必要である。

上記の番組も見てなるほどと思いつつ
コロナによって集中した権力を監視するための手段である民主主義が、投票という0か1のシステムでうまく機能するのか疑問に感じました。
多様性が当たり前の世界で、多様でない時代に作られたシステムは機能不全を起こしてしまうのではと。

民主主義の基盤となる投票システムは、参政権の拡大などのマイナーアップデートがありつつも、古代ギリシャからずっと0か1でしか出力できません。

(政治の専門家でも大して勉強をしたこともないので言葉の定義は曖昧かもしれません。また独裁制、寡頭制よりも民主制がベストという書き方をしていますが、多様性が爆発した現代でうまくそれらの意見を集約できるほどの哲人リーダーもなかなかいないと思うので、暫定的に民主制がベストかなと考えます。)


意思表示をするツールとしての投票システムの限界

政治を政府と市民のシーソーゲームと考え、政府と市民というプレイヤーは権力を投票というツールを使ってやりとりするとします。
簡単に政府が権力を持ちすぎたら独裁制、市民が権力を持ちすぎたら衆愚制となり、アリストテレス 的に言うと中庸がベストとします。現実はこんな簡単な二項対立じゃないと思いますが。。

シーソーゲーム.002

↑政府が権力を持ちすぎる。独裁制とか寡頭制とか

シーソーゲーム.003

↑市民が力を持ちすぎる。ポピュリズムとか

シーソーゲーム.001

↑中庸。アリストテレス 的なベスト


だけど、このゲームは市民が一枚の膜で覆われた領域であると仮定されている。膜とは「vsイスラム 」「vsファシズム」「vs共産主義」もしくは「vsコロナ」などのように市民の意見を一致させるものであり、昔の民主主義において0か1が機能していたのもそのような膜があったからじゃないかと考えます。

でも多様性が当たり前の現代、膜なんてなくて市民は別個バラバラ無限のグラデーションを持った領域なんだと思います。

シーソーゲーム.004

ここで膜を仮定した0か1の投票をやっても、多様な市民の意見は反映されにくく、結局は声の大きい領域や「俺たちが貧しいのはあいつらのせいだ」という感情的で利己的な膜が多様な意見を集約してしまうのかもしれません。

行き場のなくなった多様性はわかりやすい排他主義や中心主義にすり替わり、人工的に作られた膜に吸収されて歪な分断構造を産んでるのでは。共和国の名を借りた東欧のポピュリズム国家を見ているとそんな感じがしました。
日本ではあまりニュースにはならないけど、僕の家族が東欧にいることもあり悲惨な情報は入ってきます。

結局、多様化した世界では0か1で市民の意見を集約するのはもう限界で、投票自体もそろそろアップデートする必要があるんじゃないかなと思いました。そんな時に思い出したのが「なめらかな社会とその敵」という本でした。


なめらかな社会とその敵

スマートニュースCEOの方が2013年に書いた本。本当に面白かった。

去年のある講義中、前から2列目で読んでました。数学的証明を基に議論が組み立てられていくのですが、数式を全部すっ飛ばしてもある程度理解できます。(あくまで個人的意見)
100年後に「これほど未来を言い当てた本はない」と言われるかもしれません。

この文章に合うように一部分を要約すると、人は"個人"というものを仮定した近代民主主義においてステップ関数のように0か1しか取らないが、多様性が当たり前の社会ではシグモイド関数のように0から1の離散的になめらかな値をとる。

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スッテプ関数的な民主主義では共和党を支持するか民主党を支持するかの0か1しか選択肢がなかったのが

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シグモイド関数的な民主主義になるとA党に0.3票、B党に0.5票、C党に0.2票といったように離散的な意思表示をすることができる。

もちろん本の内容はこんな単純ではないけど
仮に、多様な意見が0か1でしか意思表示をできないことで行き場のなくなった多様性が「俺たちが困っているのはあいつらのせいだ」というフラストレーションによって構成された膜に吸収されてしまう。
そのことが自国中心主義、ポピュリズムに陥るのなら、人がシグモイド関数的に意見を出せることで多様性が担保される。
そしてそれが集合知を形成することで、ある単一の意見に支配されずに多様性が輝く世界がくればいいのになと思いました。


ちなみに「なめらかな社会とその敵」では"伝播投資貨幣 PICSY"という概念を用いて、良い医者と悪い医者についての評価についても記載がありました。

でも、僕は医療経済、医療の世界をちゃんと理解していないので、知識がしっかりついたら自分の意見を書こうと思います。


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RyuNishioka_西岡龍一朗
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