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ミヤコの人、アントニオ三箇

(パライソとはこういう所なのか)
セミナリオの生徒たちが奏でる南蛮の楽器が扉の障子や壁に反響し身体が軽くなる感覚を覚えた。
「あれはサントスさま(聖人)でアンジョ(天使)ですか。」
巡察師オルガンティーノ神父がセミナリオの生徒たちを連れて、生徒たちによる西洋楽器の演奏会が行われた。安土の山の麓、豪華絢爛な城と同じ水色の瓦をふかれた三階建ての建物———安土のセミナリオ———。
アントニオ三箇少年は西洋楽器の音色でまだ知らぬパライソを想像し、そして憧れを感じた。

 アントニオ三箇は10歳の頃セミナリオの門をくぐった。
「ようこそ兄弟、私はポオロだ。君の1年先輩だ。何かあれば遠慮なく言ってくれ。」
期待と不安の入り混じった不安定な心にそっと手を当ててくれたのは一期生のパウロ三木だった。
(あの時演奏していたアンジョだ。この人がいるのならなんだか安心だ。)
アントニオ三箇は直感でパウロ三木が利発そうで頼りになる人だと感じた。
セミナリオの授業は当時西洋で注目されていた人文主義にのっとったものであった。ヒューマニズム、人間であることを尊重し、真の人間的社会の実現を目指す理想主義。文学、芸術、道徳、宗教、真理を通して人間性を抑制する政治的、経済的束縛から解放して正しい発展、実現を目指すものをヴァリニャーノ神父は理想としていた。とくに「言葉」を中心とする修辞学、調和を教える「音楽」に重きを置いていた。
———正しく、かつ美しく話す———
これを大切に思っていた。ラテン語、日本の古典、教会音楽や楽器、奮闘しながらも学ぶ楽しさを覚えながらアントニオ三箇はセミナリオの日々を暮らした。
 天正10年6月2日、京都の本能寺で織田信長が襲撃され炎の中、天下人も塵と灰に帰した。主犯である明智軍は安土に向かった。危険を感じたセミナリオの神父達は生徒たちをつれて安土を脱した。間もなくして安土城と共にセミナリオも焼失してしまった。アントニオ三箇や他の生徒たちも命拾いであった。京都の南蛮寺に避難したセミナリオの神父や生徒たちであったが大人数であった。情勢が安定するまでと我慢をしてきたが場所は狭く、とてもではないが勉強ができる環境ではなかった。
 キリシタン大名高山右近はセミナリオを高槻に移すように提案した。もちろん提案だけではなく自らの領地に場所と建物を用立てた。ヒューマニズムに重きをおいたセミナリオであったが、不幸にも楽器は安土で全焼、ラテン語の先生であったアルメイダ修士も帰天。しかし歌があった。口から奏でる楽器「歌」。

———Tē Deum———
———magnificat———

 逆境の中にこそ学びがある。セミナリオの神父も生徒も決して諦めなかった。右近が明石に移されたことを期にセミナリオも堺の新しい城下町に移された。場所も変われば新しい風が吹く。風に吹かれて新しい仲間も増えた。マキシモ斑鳩、平和の武将であるジョアン内藤の親類のルイス内藤、ユスト伊地知、パウロ三木の弟ダミアン三木、アントニオ三箇の弟マチアス三箇、河内のディオゴ結城了雪、ジュリアン山田、ファビアン不干など期待と不安の入り混じった気持ちにセミナリオの門をくぐった。アントニオ三箇はもちろん彼らの背中にそっと手をおいた。アントニオ三箇も不安がないわけではない。しかし彼らの不安を知っている。彼らの気持ちに寄り添っていられる自分に気づいていた。パウロ三木先輩がしてくれたように、不安を隠した少し背伸びした堂々とした姿で
「ようこそ兄弟、私はアントニオだ。君たちの先輩だ。何かあれば遠慮なく言ってくれ。」
少年たちの眼にはアントニオ三箇の姿は先頭に立ち、誇り高く見えただろう。
 キリシタンに対して寛容であった秀吉が博多で突然「バテレン追放令」発布した。バテレン=宣教師、神父のことである。青天の霹靂である。この背景にはポルトガル商人が日本人を奴隷として売買していたものを目の当たりにした経緯がある。この騒動に対応したイエズス会のガスパル・コエリヨ神父だったが焼け石に水といった状況であった。セミナリヨは閉鎖、生徒たちは親元に返される処置であったが大半の生徒たちは諦めなかった。キリシタンの町があった平戸にセミナリヨの皆は移り、同じように難を逃れた山口のコレジオも平戸に避難となった。やはり飽和状態となり堺のセミナリオの皆は生月島の壱部に移る事ができた。日本のセミナリヨはミヤコから転々としてその後有馬、八良尾と移った。合計70名の生徒。名簿にはミヤコから来た生徒の一人にアントニオ三箇の名前が残されている。
五十二番、三箇アントニオ、河内国出身、十八歳、健康状態「中」、一五八一年入学、ラテン文法第二級、日本文学「良」。生徒の中で最年長、堂々とした姿であった。
 
 アントニオ三箇の脳裏には常にパウロ三木の後ろ姿が焼き付いていた。パウロ三木がイエズス会入会を許され、司祭への道を歩んでいた。パウロ三木はまさに憧れの存在、目標とする姿であった。キリスト教に対する日本での立場が次第に悪くなっていく状況にこの道が遠のいていくように感じていた。そんな中、パウロ三木が修練している豊後の臼杵から院長のペドロ・ラモン神父がセミナリヨに来た。来たというより彼も禁教令を逃れるための避難であった。しかしもちろんただの避難ではなく優秀な修練者を受け入れる機会も設けられるきっかけにもなったのである。1689年に11名の生徒が選抜された。アントニオ・ピント石田、メルキオール伊予、レオナルド木村、フランシスコ真柄、ジュリアン山田、マキシモ斑鳩、アントニオ三箇であった。修練期間は生半可なものではなかった。過酷な修練生活に加えて政治的な不安定さも厳しさに拍車をかけた。二年間の修練が修了し、同期達が次々と誓願を立てることを横目で見ていたアントニオ三箇にチャンスは与えられなかった。雰囲気を読みアントニオ三箇は修練院を去った。パウロ三木の背中を見ていた分、道が絶たれたアントニオ三箇だったが彼の信仰心の炎は決して弱くなったわけではなかった。

———誰か道を支える人———

 セミナリヨで最年長として後輩を支えた経験は本人が気づかないうちに自ら作りあげた道となった。彼は長崎へ行き、教会の仕事を手伝い、伝導士として懸命に祈り、働いた。
 
今まで目標としていたパウロ三木は1597年に西坂で磔の刑に処され殉教した。この知らせを知ったアントニオ三箇であった。彼の中の情熱は決して消えることはなかった。またパウロ三木の堂々とした背中姿が脳裏に焼き付けるのである。
 
「あれはビルゼン・サンタ・マリアさまか、はたまたアンジョ(天使)か。」
摂津国出身のキリシタン、マグダレナに惹かれていた。彼女は小西行長と共に肥後に移ったキリシタン武士の家庭に生れ、小西没落後長崎に移ったキリシタンだった。アントニオ三箇とは18歳年下であり信仰心に篤く熱心な女性であった。互いに惹かれ合い祝言を挙げた。
 
 人間は弱い存在である。アントニオ三箇の熱心な活動はセミナリオの経験がある分一般の信者より長けているものは当然であった。彼は傲り高ぶることはなかったが、その態度が逆に嫉妬心に拍車をかけるものである。
『アントニオは賞金目当てに熱心なフリをしている。騙されるな。いつの日か裏切り者になるぞ。気をつけろ。』
悪事千里を走るものである。誤解であるにも関わらず悪い噂の広がり方は異常である。信者だけではなく未信者にも広がったのである。この誤解は人の弱さから作りあげられたことに彼は理解していた。イエスが死刑宣告を受け、兵士たちになぶり者になり茨の冠をかぶせられた。誤解や侮辱に恐れずに信仰に生きることを示したイエスの姿を思い浮かべた。この誤解を払拭させるためにも死を恐れない信仰宣言が必要と考えたアントニオ三箇は長崎奉行所の門を叩いた。
「私はキリシタンであり、心からこの教えを奉じ、これを弘める為に懸命に働いています。そして決してこの信仰を棄てぬ覚悟でございます。」
キリシタン禁制のご時勢に自殺行為ともいえる行動であった。突然の出来事に長崎奉行も「告訴もないのに裁判にかけられない。妄言は程々に態度を慎むように。」と半ばあしらった対応であった。アントニオ三箇は一歩も引かず信仰宣言を続けた。
「私は賞金目当てに同胞をうるような卑怯者ではない。あぶく銭には一切の興味なし。信仰の為に命を捧げる覚悟はいつでもできている。」
この結果彼と妻は捕縛されクルスの牢屋に投じられた。投獄された後、死を覚悟しイエズス会の上長に手紙を出した。修道者として命を捧げたいという内容であった。
 キリシタンである罪は国の反逆罪である。つまり死刑である。死刑の種類はその罪の重さによる。下手人、死罪、獄門、磔、火刑、鋸引きの6種類があった、下手人、死罪、獄門は斬首刑であり、一瞬で苦しみが終わる為死刑の中でも軽い方である。これより重い刑として火刑がある。苦しむ時間が長いからである。火刑に処される罪人は放火を犯した者である。放火は殺人よりも罪が重い。家屋も燃えやすいうえに隣に燃え移りやすく、一度燃えると町全体に燃え広がり文化も簡単に失い、人命も大量に失い被害拡大しやすい為重い刑なのである。宣教師や神父、修道士の刑は火刑であった。キリシタンを増やす根源であるからである。反逆の火種だという認識であったのであろう。宣教師や神父達ではなく一般の信徒も火刑に処される場合もある。信徒にどれだけ影響力があるかによる為である。一般の信徒であっても火種と見なされれば神父達と同等の扱いなのである。アントニオ三箇は一般信徒にも関わらず火刑の宣告を受けた。神の計らいは予測を超えるものである。修道士として命を捧げる願いはイエズス会から受ける事はできなかったが、こういった形で名誉な殉教を受けることに神に感謝した。
 
 処刑は26殉教者後にキリシタンの処刑の名所となった西坂で行われる。処刑者は五十五名、火刑には鈴田牢に収容されていた神父、修道士たちであった。ほとんどアントニオ三箇が親しくしていた人達だっただけに感激であった。

———Tē Deum———
———magnificat———

 周囲は歌い出し、まるでごミサに参加したような荘厳な雰囲気の西坂であった。
火刑に準備された柱は25本。アントニオ三箇は西坂の海側の先頭の柱であった。25名は柱の前で軽く両手を結ばれ立たされた。彼らの前には首置台が準備され、斬首刑に処された首が次々と置かれていった。30人分の首が首置台に置かれ、妻マグダレナは25番目であった。少し遠かったがアンジュ(天使)のような顔だから一目でわかった。
(まもなくパライソで再会するであろう。そして永遠に・・・)
柱の周りに置かれた薪に火がつけられた。火が燃える音に幼少の頃に聞いた南蛮の楽器の音色が聞こえた。
(やはりパライソはこういう・・・)
炎は天高くと燃え上がり黒煙と共に彼らの魂をパライソへと届けられた。


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