原作をチェックしたくなる…~映画『アーヤと魔女』~
※ネタバレあるので見たくない人は戻ってください
正直な話を言うと『アーヤと魔女』、あんまり期待してませんでした。
期待せずに見た結果、その予感が正しかったことが証明されました。
以上。
……というわけにもいかないので、もうちょっと書きます。
いや、とにかく全編なんかのっぺりと進行していって、盛り上がりどころがよくわからなかったんですよね。
メリハリがない、と言うか。
盛り上がらずに見ていたら、盛り上がらないまま終わってしまって「え?」というのが正直な感想です。
強いて挙げれば、怒りのマンドレークが真の姿になるところなんですかね?
バンドのシーンは良かったですけど、ジブリ映画に求めてる盛り上がりってそういうものじゃないんですよね。
これは私個人の感想なので、なかには「あのバンドシーンが見られたから文句ない!」という人もいるかもしれませんが。
あとはなんだか伏線っぽく出てきて放置されるシーンが多すぎて。
たとえば「裏庭にある外への出口」のシーンとか。
「あの出口から逃げようとするとマンドレークの魔力によって動く植物に妨害される」感じの話で、アーヤが家から逃げられないことの説明になっているのかもしれません。
でもそもそも「玄関の扉が消える」「部屋の窓は不思議な力で開けられない」のシーンだけで、アーヤが逃げられないことの説明としては十分ですから、あの裏庭の出口はなにかの伏線かな?と思ったんです。
でもそのまま、もう二度と裏庭の出口に触れられることはありませんでした。
じゃああのシーンに意味はあったのでしょうか?
あと、地下の神殿みたいなところにある車のシーン。
レコードとラジカセをアーヤが見つけるためには必要なシーンでしょうが、わざわざ「ひどい異臭がする地下の神殿」に車を置く必要はどこに?
普通にガレージみたいなところで十分でしょう。
だからこの「地下の神殿」もなにかの伏線かと思ったら、それ以降出てくることはありませんでした。
あとはアーヤと黒猫のトーマスが協力して、魔女のベラとマンドレークの魔力の影響を受けないための薬を作るシーン。
頑張って作ったけれど、なんか最後の仕上げとして呪文を唱えるところで「大丈夫?成功したの?」と思わせておいて。
てっきり「ああ、じゃあ薬を作るのは失敗して、それが原因でなにかが起こるのかな?」と思ったら、なんか普通に成功していたらしくて拍子抜けがすごいことに。
まあ一番の拍子抜けは、アーヤの母親ですかね。
大きなトラブル、魔女の世界全体を敵に回すような状態になってアーヤを孤児院に預けた結果、ラストシーンでしれっと出てきて終わり。
まあ、そこらへんはメインのストーリーでないから仕方ないかもしれませんが、もうちょっとくらい説明があってもいいんじゃ……。
そもそも、ラスト近くでアーヤが「魔女もマンドレークも私の言うことを聞くようになる!」と宣言して、次の瞬間にはみんな仲良し家族状態に。
いや、その過程を見せてくれたほうが、まだ面白いんじゃないかな、と。
正直、映画本編よりもエンディングで流れるイラストを見ていろいろ想像するほうが楽しめましたよ。
というわけで、ぜひとも原作を読んでみたいと思いました。
原作がいったいどんな物語なのか、そして映画は原作を忠実に、ただ単に映像化しただけなのかが知りたいためです。
原作をただ単に映像化しただけなら、この映画の評価はさらに下がります。
小説を読むのと、映画として映像を見るのとでは、面白さを感じさせるポイントが異なります。
原作をまったく別物に改変してしまうのは問題ですが、原作内の不要な部分は切り捨て、映像にして盛り上がりそうな部分は盛り上がる映像に仕上げる、それができなければ映像化しても駄作になるだけですから。
まあ、せめてジブリ映画でなければ、もう少し温かな目で見られたのかもしれません。
どうしてもジブリ映画と聞くと『天空の城ラピュタ』とか『風の谷のナウシカ』レベルのものを期待してしまうので。
「なんかスケールの小さい話だなぁ」と思ってしまうんですよね。
もう昔のような、スケールの大きなワクワクするようなジブリ映画は見られないんでしょうね。
残念です。
あ、そうだ。
なんか去年の末に、某国営放送局で先行して流したみたいですけど、映画好きとしては非常にガッカリです。
「映画館を少しでも盛り上げる」みたいな気持ちは、ジブリにはもうまったく無いんだな、ということがはっきりわかってしまいましたので。
コロナによる影響など、さまざまな理由はあったのでしょうが、劇場に足を運ぶ人の気持ちを少しでも考えれば、先行してテレビで流すなんて発想には至らないのではないでしょうかね……。