漫画と落語:田河水泡『のらくろ』 1
江東区森下の「高橋のらくろ〜ド」
東京都江東区森下には、隅田川支流の小名木川に沿うようにして、商店街が東西に走っている。この商店街は「高橋商店街」といい、現在は「高橋のらくろ~ド」の愛称で呼ばれている。
この商店街は、かつては「高橋夜店通り」といった。戦前から通りには電気館(映画館のこと)や寄席が建ち、露店が出て、そこから「夜店通り」の名がついたという。この高橋夜店通りと清澄通りの交差点には都電の電停(停留所)があったことから、都電の利用者で通りは賑わっていた。
また、現在の森下3丁目のあたりは、深川労働出張所(日雇のハローワーク)を中心に日雇い労働者向けの木賃宿が林立し、ドヤ街を形成していた。戦後の「高橋ドヤ街」といえば、東京では台東区山谷に次ぐ規模であったが、現在の森下にはその名残はほとんど見当たらない。歩道は綺麗に整備され、ライフラインは地下に埋設されて視線を遮るものはなく、歩行者の目線の高さからでも遠くまで見通すことできる。子育て世帯にとっては安全で清潔な町だが、平日昼間の人通りの少なさは“閑散”と表現するにふさわしく、「ドヤ街」時代のむせかえるような熱気とはほど遠い。
この商店街の愛称「のらくろ~ド」とは、田河水泡の漫画『のらくろ』に由来する。田河水泡は、幼少期から青年期までを江東区で過ごした。この森下は田河にとってゆかりの地であり、彼の死後に遺族が遺品を江東区に寄贈したことから、「高橋のらくろ~ド」の最奥部にある森下文化センター内に「田河水泡・のらくろ館」が常設されるようになったのである。
そして高橋商店街は「のらくろ」を町おこしのキャラクターに起用した。こうした経緯から、現在「のらくろ~ド」のいたるところで「のらくろ」のフラッグがはためき、数多くの商店でどら焼きやせんべい、湯飲みや手ぬぐいなど、ありとあらゆる「のらくろ」のキャラクター商品が販売されるようになったわけである。
近隣の住民にとっては、「のらくろ」はなじみのあるキャラクターだろう。しかし、現在「のらくろ」の名は、世間一般ではどれくらい認知されているのだろうか。なにしろ作品が流通していないのだから、作品を手にしたことがある人は少ないはずだ。
手に入らない、かつての“国民的ヒット作品”
田河水泡の『のらくろ』は、戦前の大ヒット漫画作品である。大日本雄辯会講談社(現在の講談社)の雑誌「少年倶楽部」にて、1931(昭和6)年に連載を開始すると、1941(昭和16)年に諸般の事情で連載が途切れるまで足掛け10年にわたって連載を続けた。戦後に復活した続編は、たびたび掲載誌を変えながら、連載開始から50年後に完結を迎えた長寿作品だ。
これまでに二度、フジテレビ系列でアニメ化されたので、「のらくろ」というキャラクターを認知している人はいるかもしれない。一度目は1970(昭和45)年の『のらくろ』で、これは原作に準拠したストーリーであった。二度目は1987(昭和62)年の『のらくろクン』で、こちらはキャラクターのみ原作を踏襲しているものの、ストーリーはアニメオリジナル版であった。
1931~1941年に連載された戦前の『のらくろ』シリーズは、戦後になって何度か復刻されている。おもなバージョンとしては、以下の3種類が挙げられる。
1969(昭和44)年の『復刻版 のらくろ漫画全集』(全10巻)
1984(昭和59)年のカラー文庫(全15巻+別巻2巻)
1988(昭和63)年の縮刷版『のらくろ漫画大全』(いずれも講談社)
これらを手に入れるには、古本屋を巡るしかないので、興味を持ったからといって簡単に手に入れられるわけではないのが現状である。森下文化センター内では『復刻版 のらくろ漫画全集』が自由に読めるが、日常的に「高橋のらくろ~ド」を利用する地域住民であっても、わざわざ足を運び、手に取る人が多数派とは思えない。
名前は知っているが容易には読むことができない。
それが現在の『のらくろ』の立ち位置である。
古典と定番と流行
漫画でも小説でも映画でも、ジャンルの成立過程との兼ね合いから、作品を「古典」「定番」「流行」の3種類にカテゴライズできる。
漫画の「古典」は、北沢楽天や岡本一平、田河水泡、横山隆一などが挙げられる。「定番」は時代を超えて読み継がれている作品のことで、手塚治虫やトキワ荘組(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A、石ノ森章太郎、赤塚不二夫など)の作品群を思い浮かべればわかりやすい。『ドラえもん』(藤子・F・不二雄)などはその最たる例だ。『ドラゴンボール』(鳥山明)や『SLAM DUNK』(井上雄彦)なども「定番」に含めるべきだろう。そして「流行」は今まさにヒットしている作品のことで、『ONE PIECE』(尾田栄一郎)や『呪術廻戦』(芥見下々)などが該当する。
同様のことを小説の分野に当てはめると、夏目漱石や芥川龍之介は「古典」に分類される。これらは現在でも容易に手に入れることができるもので、書店に行けば『こころ』や『羅生門』の文庫版を購入できるし、電子書籍ならパソコンやスマホなどですぐに読むことができる。
しかし漫画の場合、前述した「古典」の作品群は、どこで入手できるのか。どうすれば『のらくろ』を読めるのか。漫画は他分野に比べ、過去の作品にアクセスする術があまりに少ない。
どれほど優れた作家や作品であっても、伝える人がいなければ忘れられてしまう。博物館に展示する“残す”意識ではなく、商品を流通させる“広める”意識がなければ、消長の激しいエンターテインメントの世界では、いつしか忘れ去られてしまう運命にある。
田河水泡は落語的な手法を用いて、漫画の世界に大きな影響を及ぼした作家である。しかし、その詳細を見ていく前に、『のらくろ』が社会にどれだけインパクトを与えた作品であったのか、今日では忘れられつつある『のらくろ』ブームの時代を紐解いていきたい。