浦和高校の共学化問題について
暗い体育館で行う校歌指導、50kmマラソン、3kmの遠泳。
これらは全て僕の母校である埼玉県立浦和高等学校(通称浦高)で行われる伝統行事だ。
男塾をも想起させるその校風に、四年制浦和体育高校と揶揄されることもある。
そして今、この浦高が共学化されようとしている。
多くのOBはこれに反発して、共学化反対の署名運動を始めているようだ。
今回は、この浦高共学化問題についての私見を述べていきたいと思う。
※いつものような留学記、旅行記ではないのでご注意ください。
僕が共学化に反対しない理由
まず、僕自身の立場を明確にしておくと、個人的には共学化には「消極的な賛成派」だ。
消極的な賛成という表現をしたのは、共学化に賛成する決定的な理由があるというより、共学化を阻止する理由がないと考えるからである。
「男らしさ」や「女らしさ」がタブー視されつつあるジェンダー観の中で、男子校や女子校という存在は時代の流れに逆行している。
「男子校」や「女子校」がこれからも存続していくためには、そこに合理的な理由が必要だ。
女子校が存続する合理的な理由を挙げるのは比較的簡単だ。女性の社会進出を推進することで男尊女卑を是正するという、アファーマティブアクション的な役割を挙げればいい。
勿論、全ての女子校がそういった理由だけで存在している訳ではないと思う。しかし、少なくともそういった体裁を取ることはできる。
無論、今後さらに時代が流れ、男女格差が是正されていけば、女子校の存在意義が薄れていくことも考えられる。
実際、アメリカの大学入試でも黒人やヒスパニック系に対するアファーマティブアクションは違憲であるという判決が昨年夏に出た。
アメリカではこれがかなり物議を醸しており、アファーマティブアクションの存在意義を問いただすきっかけとなっているようだ。
一方、男子校が存続できる合理的な理由を挙げるのは比較的難しい。
異性の目を気にしなくていいという解放感や、男しかいないからこそ敢行できると考えられているような体育会系行事。
これらは、男子校経験者にはある程度理解されるだろうが、世の中一般的に見て合理的な理由と言えるかどうかは微妙な所だろう。
多くのOB及び在校生の批判を浴びるかもしれないが、今ここで共学化を阻止したところで、いずれ浦高が共学化されるのは時間の問題な気がする。
共学化により伝統が失われるか
共学化することにより、浦高の伝統が損なわれてしまうことを懸念する者も多い。
しかし、僕個人の考えとしては、共学化しても浦高の良さが失われることはないと思う。もし失われる伝統があるのならば、それは失われるべくして失われる伝統なんじゃないか。
共学化によって伝統が失われる危険性を想起させるのは、大宮高校での前例だ。
過去に、大宮高校が共学化した後に、マラソン大会で女子生徒が死亡してしまったことがある。
大宮高校はこの事故の後に、マラソン大会を廃止した。
僕はこの事故の当事者でも関係者でもないため、事故の原因等の詳細はわからない。
しかし、共学化がマラソン大会廃止の直接的原因と考えるのは早計だと思う。
マラソン大会を実施している共学の高校は数多くあるし、その全ての高校で死亡事故が起きている訳ではない。
勿論50kmという果てしない距離を走る高校はそうそうないだろうが、女子だから50km走るのが無理かと言われればそうとも限らないと思う。
僕が過去に所属していた東京大学運動会応援部リーダーも、かつては女子の入部は禁じられていた。
今は女子リーダーの入部も認められており、高校時代ほとんど運動経験がなかったという女子も入部している。
それでも、「大出走」という、夏に30-40km走りながらハードな練習をこなす伝統行事は変わらず行われている。
結局、問題は共学化するかしないかではなく、共学化した後に事故防止のための適切な考慮ができるかどうかだと考える。
男女別学の方が学力が高い?
男女別学の方が共学よりも教育効果が高いことを示す研究結果があるらしい。
元の論文は読んでいないため、どれだけ信頼性のある研究なのかはわからないが、確かに浦和高校は県内有数のトップ校だ。
共学化することによって学力が低下するということは起こり得るのだろうか。
これは実際に共学化してみないとわからない。
しかし、僕は従来の詰め込み教育における、テストの点数で評価されるような学力には結構懐疑的だ。
以前、デンマークでは他者と協働したり、意見を発信したりする力を伸ばす教育が重視されているということを書いた。
コンピューターが進化し、チャットGPTも開発され、記憶や単純処理などの多くの作業を人間に代替できるようになった。
この時代に適応するには、従来の詰め込み教育ではなく、問題解決能力や他者と協働する力を養う教育の方が望ましいだろう。
そして、その教育を実践する上では、男女共学の方が望ましいというのが僕の私見だ。
とはいえ、元の論文を読んでないし、教育論は僕も専門ではないため、この分野に関してはまだまだ僕自身も知識を深めていく必要はあると思う。
共学が良いなら大宮高校に行けばいい?
これは、僕自身が目にした共学化に反対するOB、在校生の意見だ。
埼玉には浦高以外にも共学の進学校はある。共学が良いならそっちに行けば良いじゃないか。
言わんとしていることは理解できなくはない。
ただ、この意見は、浦和高校の独自性を否定する発言になってしまっていないだろうかと個人的に気になる。
浦高には浦高の良さがあるし、大宮高校には大宮高校の良さがある。
2つは同じ埼玉県にある進学校であれど、全く別の高校と言って良いと思う。
そんな中で、「共学が良いなら大宮高校に行けば良い」と言うのは、「浦高と大宮高校の唯一の違いは女子がいるかいないかなので、共学化したらどっちも一緒になる」と言うのと同義に思えてしまう。
浦高には男子校である以上の魅力はないのか。
大宮高校には共学である以上の魅力があるのではないか。
個人的に疑問に思った。
男女別学は多様性の象徴なのか
「男女別学は多様性の象徴だ。」
これも僕がよく目にした共学化反対の意見だ。
確かに、学校の種類が多い方が選択の幅が広がるという考えは一見して理にかなっているのかもしれない。
僕はこうした文言が流布している理由として、男と女が別の生き物であるという考えが根強いからじゃないかと考える。
例えば、血液型で入学許可が制限される高校があったらどうだろうか。
A型専用学校で、他の血液型の人は入れない。しかもその学校は進学校で、独自の教育を行なっている。
こんな学校があれば、多くの人は変に思うだろう。
これは、血液型で人間が変わるわけではないので、血液型による差別は不当だと考えられるからだ。
勿論血液型と性別は全然違う範疇だし、実際に性別が違えば、生物学的な差や考え方の差は多少なりともあると思う。
ただ、重要なのが、ジェンダーの多様性が叫ばれている時代が今到来しているということだ。
「男らしさ」や「女らしさ」という表現はタブー視されており、性別による差別にも慎重にならなければならない。
男とは何なのか。女とは何なのか。どういった定義で誰が決めるのか。
もはや男と女で性別を二分するような考え方自体すら疑問視されつつある時代だ。
浦和高校に入れるのは、戸籍上の「男性」に限られるだろう。
だが、戸籍上の性別と個人が思う性別が一致しない例が珍しくないということは、もはや周知の事実だ。
こうしたことを鑑みた時、「男女別学が多様性の象徴である」という表現をすることに、個人的にはどうしても違和感が拭えない。
以上、個人的に気になった論点をダーッと書き上げてきた。少しまとまりに欠ける構成になったかもしれない。
結構長々と書いて、多くの在校生やOBの方にとって見れば理解のできない内容もあったと思う。
ただ、僕はもう卒業した身だし、今更現役の生徒や先生方の学校運営に口出しをしようとは思っていない。
生徒達自らの手で学校を動かしていくことが浦高の高校生活の喜びの一つでもあると考えるからだ。
ここに書いたのは、あくまで僕のただの独り言だ。
これから浦高がどういった変化を遂げていくのか。新しい時代にどう適応するのか。あるいはしないのか。
母校の今後に注目したい。