あの夏、私は被災地にいた。
10年前の2011年3月11日、東北地方を中心に日本が大きく揺れた。
ちょうど後期のテスト期間中で、昼過ぎには家にいた当時高校1年生だった私は、人生で初めて死を覚悟した気がする。
お昼ご飯に食べていたラーメンを置き去りにして、必死でダイニングテーブルの下に身を隠した。
ラーメンは大きな揺れによって無残にこぼれ、食器棚から落ちては割れる食器の数々。
そして何より衝撃だったのは、テレビ越しに観た津波映像と流されゆく家々だった。
2015年夏
東日本大震災から4年が経った、2015年夏。
大学2年生になった私は、岩手県・陸前高田市に降り立った。
それまでは陸前高田どころか岩手にも東北にも縁もゆかりもなかった。
ただ、大学では社会学を専攻していたし、この時代に生きていて被災地の現状を知らないなんてあまりにも恥だと思ったから、部活の合間を縫って行くことに決めたのだった。
もちろん、それまで何のつながりもない岩手県に、被災地だからという理由でズカズカと私なんかが入っていっていいのだろうか?
4年も経った今行くなんて都合が良すぎないか?
当時はそんな余計な心配も数多くあった。
だけど今なら言える。
何年経ったって、行っていいんだ、って。
マルゴト陸前高田
向こうでは「マルゴト陸前高田」の皆さんにお世話になった。
被災した小学校や、仮設住宅、地元の漁師さん、陸前高田市長などいろんなところを回って、それぞれの立場からお話を伺った。
初めて聞く壮絶な話に、私はただただ、ただただ、相槌を打つことしかできない。
何も気の利いた言葉は掛けられないし、掛けてはいけないとも思った。
何もできない自分
自分はなんて無力なんだろうという感覚を、人生でこんなにも味わったのは初めてだった。
復興支援だの、ボランティアだの言われていたけれど、私が役立てることなんて何にもなかった。
いや、むしろ私は、現地の人から教わったことがいっぱいあった。
当たり前に今日が来ることのありがたさ。
数ヶ月後の予定を立てられることのありがたさ。
家族とくだらない言い合いができることのありがたさ。
私はこの日、
一日一日を大切に、主体的に行動する。
と誓ったのだった。
絶望の中の光
被災地を訪れた当時は、震災から4年も経っていたのに、陸前高田にあったのは津波被害を防ぐためにかさあげされた土地の山だけだった。
ただ、たった3つ、陸前高田にも希望があった。
一つ目は、伊藤さんと大森さんという男性2人をはじめ、いろんな若者の皆さんが陸前高田を盛り上げようとしていたこと。
二つ目は、仮設住宅におじいちゃんおばあちゃん達が集まり、何気ない会話を楽しめる場所(コミュニティ)があったこと。
三つ目は、2015年夏で一旦休止となってしまったが、地元の皆さんに昔から愛されているお祭りがあったこと。
今思うと、私がコミュニティの大切さを実感したことも、情報発信の本当の意味を実感したのも、この被災地訪問がきっかけだった気がする。
この時感じたすべてが、今の私の原点だなぁと。
社会人生活を振り返って
社会に出て、まもなく丸4年が経とうとしている。
私はこの4年、一日一日を大切に行動できただろうか。
自分の人生に一杯一杯ではなかっただろうか。
社会人になっても、経済的に自立しても、無力な自分は変わらない。
でも今、本当にやりたいことがわかってきた気がする。
地域や街、そこでひたむきに生きる人たちの想いを聞いて発信したい。広めたい。
もちろん被災地のことだけにとどまらずに。
6年前に抱いた「無力」という感覚を、いい意味で忘れたくない。
自分のスキルを高めることで、少しでも誰かの役に立てたら。
ありきたりだけど、3.11という日を迎えるたびにこの想いを思い出している。
交流人口
陸前高田では、"交流人口"の増加を一つの目標としている。
こうやってnoteで陸前高田のことを発信したり、東京からでも陸前高田が誇る海の幸を購入して食べたり・・・
そういう小さな積み重ねが、交流人口を生み出す。
地域活性化や地方創生では「定住人口の増加=その街に住み着く人を増やす」だけの視点で語られがちだけど、ゆるくてもずっとずっと街や地域と繋がっていくことが大事だなと思ってます。
コロナ禍でリモートワークが進んだから、交流人口だけじゃなく定住人口の高まりも期待できる時代になってきた気もするけど、その街やそこにいる人たちを忘れずに、その活動をひたむきに伝えていくことが私にできる唯一のこと。
素敵なムービー
最後に。
6年前、陸前高田で出会った大森さんが作ったムービーをシェアします。
こういった取り組みがあるんだよ、
向こうで頑張ってる人がいっぱいいるんだよ、
ってことが伝わったら嬉しいな。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?