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何もしない日があってもいい。

今日は土曜日だった。休みである。
本来であればなにをしよう?!と
ワクワクウキウキで飛び回る一日である。
しかし、わたしは、そうしなかった。
朝、わたしはとある決心をする。
何もしない日があってもいいのではないか、と。

何かしなくてはならないというのは
固定概念である。いやむしろ、強迫観念だ。
最近また質問箱でいろいろ受け付けることが増えた。前にも言ったがわたしは質問箱が好きである。
これまで1000件を超える質問に答えてきた私だが、
その中で気になる質問があった。

疲れを癒すにはどうすればいいですか?

確か。こんな質問だった。
それに私はこう答えた。
湯船にゆっくり浸かって体をふやふやにするといいですよー!と。そして、思った。なぜ休みに予定を詰め込んで遊ばなくてはならないのですか?と。

わたしは休みだから遊ばなくては!と思わない。
実際わたしは、今日何もしていない。
私が今日したことは、ひたすらに動画を見続けたり、ゲームしただけだ。
今日したことは、時間を好きに使った。その一言に尽きる。
わたしは普段から時間に追われている。何時までにこれをやり、今日中にこれをやらねばいけないという感覚は嫌いではない。しかし当然ながら疲れる。
Twitter等でも言っているけれど、今週は特に忙しかった。それは単に予定が詰まっているという意味ではない。考えること。不確定要素が多かったのだ。それは私にとってとにかく不安が付きまとう。これを何時までに終わらせるという決まった予定が組めないという状態はつらい。あれこれ考えてしまう。どうしようとか。いややっぱりこうした方が良かったのではとか。はたまた、本当の意味ではやりたくない事をやらされることに対する恐怖、そして、その時間が迫ってくるという心理的圧迫感のそれであった。その結果。わたしはある種の不眠症を発症し、寝ても寝た気がしなかったし、それこそそんな状況が2週間は続いたのである。割とというかかなり私的にはつらい時間だった。わたしは日頃から自分を追い詰めすぎないように余裕を持って早めの行動を自分に課している。それは長年わたしという人間を客観的に見てきた上手な処世術である。無理は良くない。それは前職でやり過ぎてしまい、心を折ってしまった苦い経験からなる経験則でもあった。その私がどう段取りした所でどうしようも無い予定が組まれていた。それは健康診断であったが、わたしはこれまで健康診断というものに、苦手意識を、持ち続けてきた。なぜか、毎度、血液検査で怖い思いをしたり、バリウムを飲むという苦行にもようやく慣れたものの、苦手そのものであったのである。何が?健康診断そのものが。しかも悪いことに、今回は初めて行く大きな病院である。そして、極めつけが、胃カメラ検査である。バリウムを飲んでぐるぐる回されるアレではなく。その事実を知らされたのはおよそ2週間前であった。会社の健康診断の時期だと言われ、大きめの封筒を渡された私は、胃カメラ検査という文字に顔面から血の気が引いていくような恐怖を感じた。健康診断は2週間後というのに、私の中からその予定をきれいさっぱり忘れようとする自己防衛反応があった。そして。それは昨日だったのである。しかもまた当日は朝から大雨という気が滅入ることこの上なくバッドコンディションであった。わたしはこの事実を受け入れることがついに出来ず、結果的には検査の直前まで胃カメラ検査という恐怖の大魔王に現実味を持つ事が出来なかった。いざ麻酔という時についにわたしはあぁもうダメだ、と覚悟したくらいである。まさに、直前であった。それは恐怖を感じる時間を極力減らそうという自己防衛反応であり、実際に胃カメラを体の中に挿入される瞬間まで恐怖の感情を抑え込むことには成功したのだから、どうにもわたしは自己防衛能力に長けていると言わざるを得ない。結果としては昨日noteに書いた通りであらゆる感情が入りまじる大変貴重な経験となった。別に死ななかったし、終わってみればただそれだけと言う経験ではあったが、わたしからすると、それだけでもわたしを不眠症に追いやるには十分すぎる経験だった。後にも先にもあんなに恐怖を感じたことはないし、胃カメラ検査を初めてと言っているわたしに対して病院スタッフの慌てようったらなかった。つまり、わたしが怖がっていることが面白く映った人もいたし、恐怖が伝染して施術する側にも緊張感が走ったのだと思う。実際、麻酔をしてくれた若い女性も怖がっていたし、胃カメラ検査をした若い男性スタッフも面白がっていた。私が恐れおののき、涙を流しながらひたすらにまだ終わらないのですか?を繰り返したのだから。

怖い経験はこれまでにもあった。だがそれを予告されてから経験したことは少ない。ほとんどが突然起きた。そして認識する前に終わるのである。しかし今回は予定されていて、それが怖い経験であることも予見された。だからこそ、この恐怖に対する自己防衛反応は、「直前まで忘れる」であった。それは正解であった。しかし、恐怖心までは消し去ることが出来ず、結果不眠症のような眠りの浅い日々を過ごすこととなったのである。

ここまでを考慮して。今日という日を迎えた私が、今日をどのように過ごすことが最も今すべきことなのかという問に対して、わたしは決意した。今日は何もしないという決意を。

疲れを癒すにはどうすればいいか?

その問いに対する明確な答えはない。
あるのはそこに対する曖昧な答えだ。
しかし、昨日という壮絶な恐怖に
打ち勝つことができたわたしは
満身創痍と言えるほどのダメージを
体にも心にも負ってしまった。
そこでわたしはもう一度私は何がしたいのかという
疑問に立ち返ってみようと思ったのである。
それは逆をいえば、わたしは何をすれば癒されるのかという質問と同じ意味を持っている。

お風呂に入る。それは体力的な癒しだ。
だが心は?疲れた心を癒すにはどうすればいいか。
わたしはその問いに対する明確な答えを持っている。結論からいえばこうだ。やりたくない事をやらないという勇気である。

やりたくない事をやる勇気がある一方で、やりたくない事をやらない勇気もある。それは当たり前に思えるかもしれないが、時折、その感覚は阻害されていることに気づくだろう。学校の授業や、会社の上司からの指示、やるべき事がイコールでやりたいことではない現実のほうが一般的ですらある。そんな状況に慣れてしまうとやりたくない事をいかにやりたいことのように振る舞うか?という処世術ばかり磨きがかかり、あたかもそれが常識であるかのような気持ちになっている自分に気づくだろう。私もそのひとりだ。だからそうではないと断ずることは、勇気がいる。勇気を持って自分の選択をしなくてはならない。普段の生活は、ある種、他人からの指示、または世間体や世の中の常識に照らし合わせて選択することで、自分で自らの選択をするという、当たり前だがリスクを伴う行為から単に逃げていると言えるのだ。それは社会人としてどうかと言われればそれは褒められたことではないのかもしれない。しかし、わたしは新しい職場の新人である。会社が良しとする方針に対して意見を言えるほどに確立したものを持ってはいない。ただひたすらに言われたことを実行するだけのマシーンとして仕事に従事する日々である。それは、ある意味で楽であり、自己防衛反応である。それでいいと思うわけではないがそうせざるを得ないのだ。今までの自分にはない日々を過ごしていくには。

繰り返すが、その反動として、わたしは私の今日という一日の過ごし方の最も私の心に近い選択をした。それが、何もしないである。裏を返せばそれは今までやりたくてもやれなかった選択である。だからこそ勇気がいったし、いまこうして眠る直前にnoteを、書いている私はそれなりに達成感があるのだから良しとする。疲れた時はどうするか?休むしかない。その選択を選べる勇気をちゃんと持つ。これこそが答えだと私は思っている。

MUSICAでした...♪*゚

さっきまじ寝してまたブログ書く前に寝るとこだった💦 疲れた時は寝よう。わたしはまだ、疲れた時はブログをやすむという勇気は持てていないようです。てへ。

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