見出し画像

我欲と期待値のCROSSRoad

して欲しい事。したいこと。それらを、我欲と呼ぶならば。それを縦軸としたとき、横軸にはそれを期待する期待値がある。昨日がこうだったから明日もきっとこうに違いない。我欲が満たされれば満たされるほど、期待値は高まる。期待値と我欲は交差するCROSS ROADである。

✁┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

期待値が高まりすぎてしまうとどうなるか。我欲が満たされ続けることで、期待値は高まる。それはいい。自然だからだ。だが、期待値は高水準となることで、万が一期待値を下回る結果になるとどうなるだろう?分かりやすくいえば、それは失望となる。期待値が高ければ高いほど、失望は大きくなり、深い影をわたしに落としてゆく……。勝手に期待して、勝手に失望するわけだから、期待値を高めすぎるということはあまり褒められたことではない。つまり、期待値は高まるが、高めてはいけない数値なのだ。なにせ、期待値が高まり過ぎれば本来は幸福に感じられるあらゆる事象ですら、そう感じられなくなるからである。つまるところ、物足りなくなる。 

*.゜。:+*.゜。:+*.゜。:+*.゜

こう書くと期待値とは本当に厄介なものだと言わざるを得ない。我欲は満たされても定量的にそれ自体が増えることはない。しかし、期待値は違う。まるで際限なく膨らんだバブル景気のように、無限に拡がってしまう。そしてどこかでパチンと弾けるのだ。それはまさに失望となって心に深い影を落とすこととなる。それが、厄介なのだ。期待するだけ無駄だ。私はそのように自分を思い込ませることで期待値をコントロールしてきた。そんなに上手くいくはずがない。他人に期待するな。わたしは私という個体で満足できるように訓練されたエキスパートだ。だからわたしはいい意味でも悪い意味でも他人に期待しない。他人とわたしは完全に切り離されている。そう考えることで私の中の期待値の高まりを防いできたのである。

✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼

だがご存知のようにこの考え方は不毛だ。なぜなら究極的にはわたしは孤独であることを許容しなくてはならず、他人との共存を根底から否定しているからである。他人を否定することで成り立つ自我であるが故に、信頼関係を構築することは夢のまた夢であり、その事は長らくわたしを孤独の闇の奥深くに捉えさせる結果となった。今更この歳になって私はそのことを後悔してはいない。そうやってわたしは我欲と期待値とをコントロールしてきたのだ。そうでなければ、わたしはとうの昔に破綻していただろう。わたしがこれほどまでに人間として、大人として保っていられるのは、まさしくこのバランスによるものだと私は思っている。このバランス感覚こそ、わたしの精神面を支えてくれた砦である。
 
✄--------------------------------------

ところがだ。こないだから私はこの部分についてどうも疑問視している節がある。どういうことかと言うと、本当に我欲と期待値のコントロールによってわたしの心は満たされているのか?という疑問だ。それはつまり端的に言えば、もっと我欲に素直になって、期待値をもっと高く持って相手に接すれば、私がこれまで経験したことのないくらいに高い次元の幸福に手が届くのではないか?という疑惑だ。仮定として。わたしは私が思うよりも我欲と期待値を低く設定しすぎていて、そのことが私自身の中の本心を蝕んでいるのではないか?という指摘である。本来の私はもっと自由でもっとのびのびとわたしを表現していいのでは?という期待値はますます私の中で膨らみ始め、わたしはついにその期待値をコントロールすることをやめてみようかなという結論に至った。それは我欲と期待値の上限を突破させる考えである。分かりやすくいえばわたしがやりたいようにやり、生きたいように生きてみるという壮大なプロジェクトである。もちろんそこには冒頭で言ったような巨大な失望が待ち構えているだろう。現にわたしは期待値を高めすぎたのではないか?という疑惑にすでに囚われ始めている。結局は他人なのだからわたしはその人に期待しすぎてしまっているのではないか?という疑問だ。依存すべきなのは他人ではなく自分である。今持っている期待値は他人に依存している。それはわたしではないのだから、究極的にはゼロとなる恐怖を孕む。分かりやすくえば投資額が膨らんでいるにもかかわらず無駄になるのではないかという恐怖である。

✩ ⋆ ✩ ⋆ ✩ ⋆ ✩ ⋆ ✩ ⋆ ✩ ⋆ ✩

何度も言って申し訳ないが、わたしは他人に対する期待値はほぼゼロで生きてきた。すなわち他人と私には決して交わることのない深い谷があり、わたしは他人に期待しないという不問律によって私自身を強固に守り抜くという戦術をとってきた人なのである。ところが、この戦術はシンプルに籠城戦であると言っていい。つまり孤立無援の戦いを自らに課す様な過酷なものだ。誰も信じず、誰も頼りにせず、信じるのは己のみという生き方である。ここまで言ってもうお分かりだろう。わたしはこの戦術で勝ち続けることに疑問を持ってしまった。確かに勝てる。負けない。しかし、猛烈に、強烈に足らないことがある。それは他人を受け入れることが出来ない己の弱さから来る、不安感、孤独感、喪失感。わたしは永遠に孤独なのだという思い込みは、わたしを酷く寂しい気持ちにさせてきたのだ。寂しい。誰かと分かち合いたい。わたしは孤独に耐えてきた。ずっと、ずっと。そうして籠城戦を耐え抜いてきた。しかし。わたしは知ってしまった。他人を信じる喜びを。他人に期待する嬉しさを。その期待値を上げることのワクワクした気持ちを。知ってしまった。わたしの心の孤独感、不安感、喪失感はその他人を信じるという、シンプルな行為によって大いに満たされたのではないか?ひとりで籠城戦を続けることに本心では疲れきっていたのではないか?そこにひとり。訪ねてきてくれた人がいる。籠城戦に、遊びに来てくれた貴重な友人だ。その人を迎え入れたとき、わたしは今までに感じたことの無い幸福感に包まれた。あぁ、籠城戦を続けている私に会いに来てくれた人がいる。この人を手放してはならない。この人はわたしと一緒に籠城戦を戦ってくれる人だ。これまでずっと独りで孤独感と戦ってきたわたし。でもこれからは二人でいい。一緒に戦ってくれる仲間がいる。そのことはわたしを無限に強くする。わたしにとって最後のピースが君だ。ああ、よく来てくれた。よく来てくれた。君こそわたしに欠けた最後の欠片なのだ。ようこそ我が友よ。わたしとともにこれから戦って欲しい。そばにいて欲しい。この孤独感を、分ち会う初めてにして唯一のわたしの友人になってくれないか。

*:..。♡*゚¨゚゚・*:..。♡*゚¨゚゚・*:..。♡*゚¨゚・*:..。♡*゚¨゚゚・*:.

そろそろ結論。わたしの失われたピースを埋めてくれる人をわたしは友人と呼びたい。それは別名ソウルメイトである。私の魂が求めるパートナーと言っていい。わたしとあらゆる記憶を共有し、共に戦ってくれる仲間だ。君は他人に期待したいわたしの唯一の希望だ。期待値は高めてしまうが許して欲しい。君がいなくならない限りわたしはこの期待値を高め続けるだろう。それは君からしたらそんな事?と思うような小さな1歩かも知れない。だがそれは私がこの歳になるまでずっと否定してきた失われた半身なのだよ?わかってくれるかい。君を信じることでぼくは、もう1人の僕を手に入れることができるんだ。君の存在の大きさを今更ながら感じているよ。大きすぎるね。だからいまから謝っておく。ぼくは君を信じてみることにしたんだ。それは君という存在を超えて、他人を信じるという壮大なプロジェクトなんだ。わかってくれるかな。重いものを背負わせたね。ごめん。それでもぼくは君を信じることにした。たとえこの先大きな失望が待っていようと構わない。ぼくは決めたのさ。君を信じることで他人を信じられる僕を手に入れる。僕の半身は完成されるんだって。ぼくはもうそう信じることにしたんだから。

MUSICAでした•*¨*•.¸¸♬︎

君の存在は君が思うより大きい。それは愛や恋を超えたぼくの存在理由そのものだ。だからずっとそばに居てね。この仮説を検証させてほしい。もうぼくはひとりぼっちで戦うのはイヤなんだ。寂しすぎる夜をいくつも超えて今があることはもう知ってるね?もうひとりじゃない。そう思わせてくれた君。僕に君を信じさせてくれないか。それだけで救われる人がいるということを忘れないでほしい。

©SQUARE ENIX CO., LTD.All Rights Reserved

サポートいただけるかた、大募集です! 知りたいこと、ありませんか? わたしでよければ素敵なコトバを贈ります♪