FF16なんて、きらいだ。
タイトル通りです。タイトル回収は一番最後にします。
途中から追加して書いてみる。
途中?↑の記事のこと。別の内容を書こうとしてやめた。
引用記事の年号が2020年。いま、2023年。およそ3年の時がすぎている。このままこの記事を削除してもいい。だが、しなかったのは、そのほうがおもしろいと思ったから。ぼくはこのノートは、ぼくが思ったこと、感じたことを100%嘘偽りなく記すことにある。
だからそのままにすること。それがいいと思ったこと。それを記すことが、僕がこの記事をそのまま使おうとした理由だ。
せっかくなので。人の気持ちを考えられない人の末路を記そう。
人の気持ちがわからないと悩み、人の気持ちこそを理解することが人の道だと信じたぼくは、こわれてしまった。
自分を信じられなくなっただけだった。それは幸せとは呼べない。
こわれることで自分を超えるつもりだった。だが、越えられないばかりか、ぼくは地中深く潜る結果となったのである。
このことから理解できることは、人間にはできることとできないことがあるということだ。できないことがあったとして、それができなかったとしても無理にできるようにすると、こわれる。
努力を強いることは、人格の否定だ。
できないことを、弱点を克服することは美しいといわれる。
それは、できそうなことを、いままでやらなかったひとに当てはまる言葉であるといいたい。ぼく?ぼくはできそうなことじゃなかった。人のことなんてこれっぽっちも理解できなかった。
所詮、できないことを無理にすることはないのだ。
無理にしてできるようになる場合、それはもともとその人ができていることだけである。
できないことが、ある日突然できるわけではない。
ゆめゆめ間違ってはいけない。
3年たったいま。ぼくは、もう人の気持ちなんて考えることは
きっぱりやめた。なぜならわからないからだ。
もっといえば、ばからしいからだ。
それは、僕の気持ちが誰にもわからないように
僕も、他人の気持ちなんてわからないからだ。それが真実である。
僕がすべきなのは、他人の気持ちを慮ることではなく
圧倒的に自分自身の心との対話だった。自分が何を考えて
何に苦しんでいるのかを理解する時間だった。
それが意味することは、自分をいたわる気持ちであり、
自分自身を理解する気持ちであり、自分は自分のままでいいという
結論である。
つまり、わからないことをわからないといっていい権利だし、
おもしろくないものをおもしろくないといっていい権利である。
それはぼくが感じたきもち、心であり、否定されるものではない。つまりここで重要視されるのは、自分の心を偽らずに生きるとかそういう青臭い人生観ではなく、いや、もちろんそうなのだけれど。
そういう自分を否定せずに、表面上はうまく付き合うという処世術である。自分自身には嘘をつかずに、周りの人間には思いつく限りの嘘をつくということだ。そうして自分を守る。そのこのを責められようが、気にしない。僕を否定することは断じて許さない。
そういう視点でいけば、ファイナルファンタジー16もきらいだ。とてもじゃないが面白くなかった。でも、そのことを明言できずにいた。ずっと靄がかかったような気持ちになっていた。これを面白くないといってはいけないような、面白いといわないと怒られてしまうような。いや、むしろ逆かもしれない。面白いというととても怒られていた。たくさんのインフルエンサーが怒られていた。
ぼくは、そんな状況で何を思えばいいのかと頭を悩ましていた。面白くはない。なにも響かない。むしろなんだこれっていう冷めた笑いが込み上げてきたぐらいだ。何かのギャグなのか?とすら思った。大人のためのファイナルファンタジーはどこの部分を指して言っているのか説明してほしいくらいに。むしろ少年漫画のそれを思わせるチープで熱血漢で、正義感の塊のようなうすっぺらいストーリーには辟易としたし、途中からコントローラーをぶん投げたい気持ちにすらなった。なんだよ、ファイナルファンタジーまでぼくを否定するのかよ。ぼくのアイデンティティの根源たるファイナルファンタジーはどこへいってしまったのか。いや、どこへいこうとしてるのかなんてどうてもいい。ただ一つはっきりしていることは、もう、僕の人生にファイナルファンタジーは必要ないという事実だった。
ファイナルファンタジー初のアクションRPGという部分はまだいい。最高画質でつくる最新のファイナルファンタジーというのもそりゃそうだろと思う。ぼくが知りたかったのは、いや、ぼくが見たかったのは、ファイナルファンタジーはすごいぞという意地だった。威厳だった。復権の狼煙だった。このファイナルファンタジーにはそのどれもが、存在しない。とにかく昔のファイナルファンタジーを思わせるような舞台設定。地味すぎるキャラクター。主人公の武器すら変えられないRPGとしての要素をすべてかなぐり捨てたようなシステム。このどこに期待すればいいのか。ぼくらの夢見た、最新のファイナルファンタジーはこんなものでは決してない。こんな中途半端なゲームであってたまるか。
思えば、吉田直樹氏が大成功に導いたファイナルファンタジー14という作品も、これをファイナルファンタジーといっていいのか?とすごく悩むゲームだ。ララフェルはかわいい。ジョブチェンジもいい。バトルも奥深い。だが、ここにあるのは、MMORPGとしての面白さはあっても、ファイナルファンタジーとしての面白さは微塵もない。その証拠に、ファイナルファンタジーのテーマパークというつくりになっていることが、そもそもファイナルファンタジーではないものだという事実を雄弁に語っている。それは過去のファイナルファンタジーをなぞる行為であって、ファイナルファンタジーではないからだ。
さんざんプレイしておいて、いまさら?という意見は認める。だが、ぼくが感じている面白さはファイナルファンタジーとしてのそれじゃなく、MMORPGとしての面白さである。自分以外の誰かと一緒に旅をする醍醐味である。実はその一点こそ、ファイナルファンタジーらしさを感じている部分である。つまり、これまでのファイナルファンタジーに存在しない楽しさがあるかないかである。あとはRPの面白さかな。
そういう意味で言えば、ファイナルファンタジー14のMMORPGという要素すら、ファイナルファンタジー11の二番煎じである。だから厳密にいえば、それすらファイナルファンタジーらしくないのだけれど、ぼくにはいまさらファイナルファンタジー11をプレイするという意欲がわかなかった。
画質がとんでもなく古いということと、プレーヤーが古参しかいないだろうということと、自分好みのキャラがいなかったというところにその大きな理由がある。つまり、ファイナルファンタジー14ですら、僕にとってはファイナルファンタジー11の代替品であり、たまたまララフェルという自分好みのキャラクリができたからプレイしているだけに過ぎないのである。
そう考えると、やはりファイナルファンタジー16はきらいだということになる。クライヴというキャラクターは好きになれないし、しいていうならジョシュアはかわいくて好きなのに、プレイアブルキャラじゃない。序盤だけ少し触れるだけ。もし、これがプレイアブルキャラになってくれたらぼくはきっとファイナルファンタジー16がめちゃくいちゃ好きになるだろう。あれ?もしかして、その予定あります?スクエニさん?あるなら早めに教えてね。
もし、あのストーリーをジョシュア目線でプレイ出来たら神ゲーになるよ?DLCでもいいから今すぐリリースしてください。絶対プレイするから。あとは、ガブの視点とか。シドとか。エピソードジョシュア、エピソードガブ、エピソードシド、エピソードジルとかだせばいいじゃん。それでいいよほんと。
もう一度言う。ぼくはファイナルファンタジー16はきらいだ。キャラも好きじゃないし、ファイナルファンタジーらしい挑戦もない。それが初めてのアクションRPGと言われても、むしろ、いま配信でプレイしているファイナルファンタジー零式のほうがよっぽどアクションしてると感じてしまう。あれ、召喚獣合戦もあるし。
だから、どこをどうやって切り取って考えても、ファイナルファンタジー16を好きになる理由が存在しない。いまのところ。だから、嫌い。ぼくはファイナルファンタジー16がきらいだ。
最初の文章に戻れば、まさにこのことを言えずにいた自分がとても苦しかった。自分の意見を言えずにいることが悔しかった。ぼくはぼくが感じていることに嘘をつきたくはない。とくにこのノートではそれを自らに禁止している。すきじゃないことは好きじゃないという。それがこのぼくのノートの唯一にして絶対のルールだ。
そのかわり、好きなものは好きという。それは人に対しても。音楽に対しても。ゲームに対しても。そこは揺るがない自分でいたいと思ってるよ。
最後に。この文章を書く勇気をくれたジスマロック氏に感謝を。
あなたの記事はほんとうにぼくに勇気をくれるから。
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