理想の異性って何。

理想について話そう。

り‐そう〔‐サウ〕【理想】

読み方:りそう

人が心に描き求め続ける、それ以上望むところのない完全なもの。そうあってほしいと思う最高の状態。「—を高く掲げる」⇔現実

理性によって考えうる最も完全な状態。また、実現したいと願う最善目標あるいは状態。

https://www.weblio.jp/content/%E7%90%86%E6%83%B3

 いや。言葉の意味じゃなくてね?いや、あってるのか。
考えうる最も完全な状態、というところがいちばんしっくりくる。
つまり、何の話かというと、理想の話がしたいのだ。
つまり、「理想」の異性の話がしたいのである。

 いまさら考えるまでもないことかもしれない。それは誰もが理想の異性について一度は考えたことがあるからだ。むしろ考えない人はいないと言っていい。すでに結論に達している人も多いだろう。自分はこういう理想を持っている、と。

 理想を持つ、ということについて非難する人はいるだろうか。たとえば、自分自身のスペックに照らして考えて不釣り合いともいえる理想を掲げている場合である。理想が高すぎるというやつだ。しかしよくよく考えれみれば、理想が高すぎる(または低い)という尺度は他人のそれである。本人の尺度ではない。自分の理想を考えたときに「これはさすがに理想が高すぎるな」と自分で自制する人もいるだろう。だが、私は常に頭の中は自由でいたい人だったらしい。そういう自制を自分自身にかけたくない。常に自分は自分にとっての理想を常に高く掲げてその理想に向けて最善のチョイスを選ぶこと。それが自分自身が生きる理由であると考えている。

 理想を持つことは罪だという人がいる。さきほどの不釣り合いだという論法だが、これは自分で自分の首を絞めるようなものである。他人に言われてしまうことは防ぎようがない。それはあきらめるしかない。だが、自分自身の声のほうは自分で発している(たとえ声にならない声だとしても)ので、それは防ぐことはできると思っている。自分で自分の首を絞めるようなある意味で〇殺のような言動は百害あって一利もない。ここはあえて断言する。

 なぜ自分自身の理想について考えたり、語ったりするときに、自分のスペックとの比較をして、何かに忖度しなくてはならないのかとずっと思っている。ここは譲れない。自分自身が何が好きで何をいいと思って生きているかは自分自身のアイデンティティともいえるものである。これを否定するいわれはないし、たとえ自分自身であったとしてもそれを許してはいけないと僕は思う。

 そういう意味で、理想を考えることは僕自身の日課であるともいえる。常に何が最善で、何が最強で、何が一番好きなのかを常に探している。だからこそ頭の中は常にフル回転で疲れるのだし、他人から見ればいつも何を考えているのかわからないというパーソナリティとして発露するのだが。これはHSS型HSP気質である自分からするととても自然なことで、ここを常にビルドアップしておかないと、立っていられないというほどのアイデンティティなのであるから、仕方ないのである。もちろん、客観的に自分を自己分析すれば確かに疲れるし、気苦労も絶えない。だからこその一人好きなのだが、それは疲れるけれどもやらなければならない命のタスクのようなものなのだから、よくよくぼくは矛盾を孕んだ存在なのだなと自分でも時折思ったりはするけれど。それでも、やめようと思わないし、常にベスト(ここいう理想)を追い求める姿こそが、自分自身であると理解しているので、やめられないのである。まあ、いうまでもなく音楽において常にあたらしいものを探している自分の趣味が、どうしてそうなっているのか?についてはまさにここの気質が理由になっていると言えるのだ。常に新しいものを探して刺激を求め、その新しい刺激の中に自分の理想を追い求めているのだ。逆を言えば、すでに知っているものはそのほとんどに興味を持つことはできないのではあるのだけれど。

 いかに知らない刺激の中に、自分自身の理想の要素(概念)を見つけていくか?という考え方になると思っている。それは、HSS型HSPの気質だといったが、もしかしたら、世の中のほとんどの人はそういう感覚になっているのかもしれないとすら思う。つまり、自分が子どものころに感じた疎外感や孤独感というものはいまや、いや、もっと正確にいうならば、インターネットでSNSが発達したおかげで日の目を見ている。そういった今までは「希少種」だったHSS型HSPが、むしろメジャーになっているような気持ちすらしている。さきほどの推しの「概念」という考え方も、まさにそれで、公式が用意したグッズだけでなく、全く関係のないグッズから推しの要素を感じ取ることで、新たな刺激を求めているわけだからだ。

  一向に異性の話にならないが許してほしい。もうすぐおわるから。つまり、他人があまり考えないような小さな違いやちょっとした違和感から共通点という刺激を探し出し、そこに突っ込んでいくことで自分自身だけのベスト(理想)を見出す行為である。推し活をそのまま宗教になぞらえる人も多いがそれもまた、答えのない神という形のない存在に対して、新たな刺激を求めた結果であると容易に想像はできよう。ま、宗教なんて情弱ビジネスの一つだと思っている部分は少なからずあるんだけれど(すみません)。

 理想とは一方通行の感情でなければならない。一方通行の好意でなければ成立しない。それが理想である。つまり相手はあるが、相手との接点はない状態にこそ、理想とは育まれる妄想だからだ。妄想は恥ずかしいものとして長く嫌われてきた。無駄といわれてきた。妄想するくらないなら、目の前の推し(または神)に直接聞いてみればいい。そうすればわかるだろう。理想は推しにあるのではなく、自分自身の中にあるということが。

 自分自身の中を具体的にすれば、自分自身の妄想の中といっていい。頭の中の妄想が理想とイコールで結ばれる。それこそが真実である。世の中を思い通りにするのは、自分自身の中のイメージそのものだ。ろくでもない世の中が見えているのなら、ろくでもない世の中がいいと思っている妄想があるからだ。であるなら、理想を妄想し続けることで、理想の世界は生み出されるはずである。

 では、理想の異性についてはどうだろう。そこにも自分自身の理想が生み出す理想郷の中にあると思うだろうか。結論から言えば、そうではない。なぜなら理想の異性を考えるとき、それは大抵の場合一人の人間である。世界のたったひとりの異性であり、並び立つ、または目の前に立つ人である以上、そこには反発する力が存在している。それは、相手の妄想である。もっといえば、相手の理想である。

 理想の異性を考えたとき、相手の理想も考えなくてはならない。つまり、理想が現実と違ってくるのは、なぜかといえば、相手の理想がまったく別の力学で存在しており、その相手の理想が自分にとってまったく理想とかけ離れた世界、つまり、現実として存在しているからである。現実とは端的に言えば、自分以外の理想である。それも自分が望んでいない理想の成れの果てだ。そりゃ、つらいだろう。

 理想を追い求めるとき、人は一人でなくてはならない。誰かの理想をそこに含んではいけない。理想の世界を作ろうと思えば、自分の理想をこそ追い求める必要がある。だから解脱があるのだし、出家があるのだ。瞑想がそれを実現するし、マインドフルネスとは理想 を見つける旅路である。

 ついつい前置きが長くなっていけない。理想の異性についてそろそろ答えをだそう。理想の異性とは、存在しない。存在したらそれは誰かの理想である。誰かの理想と自分の理想を重ねることでそれを得ることができると思う人がいればそれは不幸である。自分自身をまったく殺して、誰かに依存する生き方のどこに理想があるというのだろう。そこに見えるのは蜃気楼であり、誰かの理想は自分の理想に絶対になりえない。

理想の男
・笑顔がかわいい
・細マッチョ
・おもしろくてやさしい
・金銭感覚が庶民的
・けちけちしていない
・家族や子どもを大切にする
・夢がある
・友達がいる
・アイドルやアニメにハマっていない
・浮気しない
・周りから尊敬されている
・怒らない

理想の女
・存在がかわいい
・小動物のような愛らしさがある
・いつまでも気が若い
・ナチュラルなメイク
・年相応のファッション
・たまに少女のようなかわいさがある
・たまに母のような愛情がある
・みんなにやさしい
・怒らない
・嫉妬しない
・質素倹約
・良妻賢母
・程よい肉づき

・・・・もうやめた。意味がない。何度も言うが、理想を考えることはいい。さっきも言ったようにぼくは理想を常に考えている人だ。理想を追い求めている人だ。だが、理想を考えれば考えるほど現実に打ちのめされる。現実は他人の理想である。他人は変えられない。つまり、現実は変わらない。理想は叶えられない。つまり、理想の異性など、存在しないのである。

 ここで勘違いしてほしくないのだが、ひとつ忠告しておこう。理想の異性は存在しない。その理由はさきほど述べたが、しかし、理想の自分自身は存在する。最後、ここについて述べて終わりにしよう。

 理想の自分とは何か。頭の中で妄想する自分。なりたい自分。最強の自分。それは存在可能だ。理想を実現するのも自分。体現するのも自分である。そこに他人の理想は一切存在しない。他人は一切関係ない。他人の理想である現実はある。だが、自分の理想に間接的に影響することはあるが、自分の理想は自分の妄想の結果である。

 であるならば、他人の理想である現実に期待するな。現実は忘れろ。自分自身の理想について考えろ。自分の理想だけを考え抜け。そうすれば理想の自分になれる。理想の自分は実在する。理想の自分を妄想する異性は理想の異性である。自分の理想を持っている異性こそ、理想の異性である。

 つまり、夢のないことだが、他人に一切期待せず、自分自身を高めようとする人こそ理想の異性である。極論をいえば、異性である必然性は、子どもをつくるためである。異性でなければ自分自身の遺伝子を継ぐ子を得ることはできない。ただそれだけである。

 理想は、自分自身に持つべきものであり、異性などに理想を押し付けるものではない。他人の、それも異性に対する理想ははなはだ迷惑なだけである。今すぐ忘れるといい。

あーすっきりした。言いたいことを言える世の中は存在しないので、僕の妄想ワールドであるこのnoteは理想の場所です。


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