「青空に雨」第5話
第5話「錦織大和」
小さな頃から人の気持ちとか、空気とか。そういうものを妙に感じ取ってしまうところがある。大人からはよく『男の子なのによく気がきくね』なんて言われて、いろんな意味で面白くなかった。そして都合よく動く俺に『いい子だね』とお菓子とかお小遣いとかをよこす大人のつまらない部分が見える自分を嫌った。
だから、あの時は本当に驚いた。
小学5年の時、同じクラスになった尾上陽太を『ピアノを習っていて女子みたいだ』と一部の男子が揶揄うようになったのは、夏休みが明けた頃だった。
『それなら音楽発表会の合唱で伴奏を弾いてもらったらカッコいいと思います』
『尾上くんが音楽の合奏でアコーディオンを弾いていた事があったけど、とても上手でした』
『尾上くんがちゃんとピアノを弾いているところを聴いてみたいです』
と、いつも静かに席に着いていて印象の薄い星田勇気が先生に提案したからだ。
俺はてっきり、ユウも俺みたいに空気が読めるやつなのかと喜んで声をかけ、友達になった。先回りして揶揄いの声が小さいうちに、音楽発表会という大きな力で収めようという戦略なのかと。それなら、もしかしたら俺の抱えるこのしんどさとか大人への憤りとかを分かち合えるかと思って。
……けど、ユウのは『ただのいい奴』だった。
クラスメイトの得意な武器をみんなにも見せたらいいのに、という純粋な好奇心だけで揶揄いの声を収めた。
ナチュラルにすげーやつだなと、本当に驚いた。
それに対して俺のは、大人に評価され続けて何となく身についてしまった『気にする癖』みたいなもの。まぁ今思えば、あの時のユウの行動も、全てに興味が薄いユウらしからぬ出来事ではあったのだけど。
結果的に音楽発表会で伴奏を担当した陽太は、大人から絶賛をされ、同じクラスの女子からも賞賛を受け、一部の奴らの揶揄いはなくなった。それから陽太はユウに懐くようになったわけで、つまり俺たちはそれ以来の友達なのだ。
そして俺は今でも人の感情とか、空気とか。人波のうねりから滲み出る澱をなんとなく感じ取ってしまう。それならばとひとりで考察をするようになって感じ取ったものを言葉で納得する工夫もしてみた。結果を吐き出す先はユウと陽太だ。ただの考察オタクと呼ばれつつも、これがいつからかデフォルトの流れになっていた。
高校生になって長谷川さんに惹かれたのは、長谷川さんの言動に透けて見える下心を全く感じなかったからかもしれない。男子の前で自分をもっとよく見せようとか、可愛いと思われようとか好きにさせようとか。そういうものが透けて見えることは一度もなかった。
けど、俺の考察が正しいとするならば、何も透けて見えるものがないというのは当然で。
たぶん……いや、99パーセント。そもそも長谷川さんはそういう目で男子を見ていない。
そして、しばらく長谷川さんを気にして見るようになってわかったことがある。俺が見当違いな考察をしていなければ、長谷川さんがそういう目で男子を見ていないワケはこうだ。
今、長谷川さんの目に“そういうふう”に映っているのはそこら辺の男子ではない。
対象はおそらく、小川渚沙である。
「はぁ、いいなぁ小川ー」
「何だよ急に。小川がどうかしたのか」
そうだ。いいワケではないのか。思わず小声で漏れた言葉を、隣の席の陽太が拾ってくれたおかげで我にかえった。
「いやなんでもない。やっぱり可哀想だった」
「何だよ、変な奴だなぁ」
そう言って陽太が呆れたように笑う。そんなこと言って笑ってるお前だってなぁ……
「陽太もな、可哀想にな」
「何で俺も? 何があったんだよ!」
「尾上ぃ。尾上陽太。早く取りに来ないと点数発表するぞ」
「ぅわ! 待って先生、すぐ行くし!」
何を隠そう、今は現国の授業中だが、高校生活初めての定期テストが返却されている最中で、教室内は騒がしい。そんな中俺の意識はどこか遠くに向いて、意識の片隅に隠してある考察回路へアクセスを試みている。
俺が好意を寄せている長谷川さんは隣のクラスで学年のアイドル的存在で、そんな長谷川さんは、多分だけど小川渚沙を好きらしい。だかしかし、小川渚沙の矢印は星田勇気に向いている。ここが、可哀想な理由だ。けど、これじゃあいつまで経っても行き止まるだけなんじゃないか?
「ユウなぁ……」
ここにはいないユウの姿を脳内に思い浮かべる。ただ、ユウもまた余計な感情が透けないようにできている稀な人間だ。女子とか男子とか関係なく、そもそも人にどう思われたいという気持ちが見えない。それはつまり、自分から積極的に近づこうという気になる人間がいないという事だ。
先日ついに気になって調べてみたら、恋愛そのものを必要としない人も一定数いる事を知った。決めつけはよくないけど、現状、ユウはそれなんじゃないかと思っている。
「と、なると……」
「にーしーきーおーりー! 点数言うぞ!」
「あ!」
ガタンと陽太の机にぶつかりながら席を立つと慌てて教卓へ向かった。クスクスと笑われている声が聞こえる。『バスケ部のデカいやつがまたぶつかってる』そう思われているんだろう。何となく透けて伝わってくる。でも実際身体がデカいと教室も机の間の通路も誰よりも狭く感じるんだからこればかりは仕方ない。いや、感覚とかの問題ではなく、物理的事実だ。まあいい。国語の得点は……。
「微妙ですな、大和サン。俺87〜」
「見るんじゃねーよ」
「何さっきからブツブツ言ってんだよ、考察オタクが」
「可哀想な陽太と小川の行末を案じてるんだよ」
「何だよそれ、小川と一緒にすんな」
「今回の学年平均は72.3点。最高点は87点」
「おっ」
最高点が発表された直後、視界の端に小さなガッツポーズが映った。
「高校生になって最初のテストだというのにイマイチ振るわなかったな。国語はどうせ日本語だから勉強しなくてもいいなどと甘く見てはいかんぞ、なにしろだな……」
最初のテストの平均点が、先生の予測から大きく下回ったことで不満の説教が始まった。国語の教師ならもっと伝わる言葉で簡潔にまとめろよ。
話を戻して。もし本当に、ユウは誰に対してもその気がないとなると、小川と……陽太も。陽太も? まぁ、陽太も。恋の成就には程遠い。可哀想にな。……って、長谷川さんが男子に対してその気がないとなると、俺も可哀想じゃん? で、長谷川さんも。小川はそんな長谷川さんをどう思うのかな……
「……り、錦織!」
「ふぁっ!?」
「お前はでかい図体をしてぼーっとして。全くもって目について仕方がない! テストの解説中も気を抜かずにしっかり聞きなさい」
「はーぁぃ」
クスクスと小さく笑う声がする。俺はデカくて目立つから。そして目立つ割に陰キャだし、考察回路にアクセスを始めると、身体はただの抜け殻のようにぼーっとしていることが多い。陽の当たるような場所に俺が惹かれるものがないだけなのに。
“デカいやつがぼーっとするな、ジャマだろ”
“男の子の割に気がつくねぇ”
“デカいのにドリブル上手いなぁ”
“デカいのに小回りきくんだなぁ”
“バスケ部のくせに暗いよね”
デカい男子っぽいことをしてもそうじゃいことをしても、結局他人は何かを言ってくるし、ついでに笑う。
自分が慣れた世界を少しでもはみ出せば、無意識に乱暴な言葉と態度を使って攻撃する。人間なんてそんなもんだろ、あらゆる属性で。身長だってそのひとつだ。
俺が長谷川さんに興味を持ったのは、そういう意味合いの視線を全く感じなかったからだ。そんな長谷川さんを作ったのは、長谷川さん自身がマイノリティなジェンダーを持つ“多くの人が慣れた世界の外側にいる人”という背景が影響しているのかもしれない。やっぱり人は経験によって視界が広がるし、逆に経験してないことを簡単に理解なんてできないんだよ。
俺は長谷川さんを好きだけど、長谷川さんには、好きな人と幸せになってほしいな……
「おいっ、大和! 授業終わったぞ! いつまでぼーっとしてんだよ」
「へ? あ、あぁ。陽太……」
「憐れなものを見るような目で見るなよ。何を考察してたんだか」
「まあ、放っといてくれよ」
「考察オタクめ」
「いいだろ、頭の中は誰にも邪魔されないんだから」
「でもさ、そんなふうに言えるものがあるのは、なんか少し羨ましいな」
俺のおかしな言動をこんなふうに受け取ってくれる陽太もまた、幸せになってほしい。
つまり、俺は小さい時からこうだ。周囲を眺めていると人間関係が相関図のように見えてきて、その中の人々のうねりに気を配ってしまう。俺が何かに影響することなんて、ないのに。
今だってそうだ。ユウを取り巻く不思議な相関図を、文字通り高いところから眺めている。その中に入り込みたくても、俺の居場所はない。
これからもたぶんそうだ。
「ホームルーム終わったぞ。大和、今日ずっと変だな。なにかあった?」
「え? あぁ、今日から部活だなって。……10日ぶりの練習だからちょっと心配してただけー」
「は? なんだ、そんなことか。まぁ、怪我とかすんなよ」
「うん」
本当は違うけど。
中学の時、俺のポジションはセンターだった。けど今はそれにすら違和感を覚えている。デカいのに、周囲が見えてて気を配れてドリブルが上手いくせにパワーに欠ける変なやつ……と言われていたのも知ってる。身長で役割を決めて、デカいやつはこうだとステレオタイプで人を見て、そんな声をいつも気にしている。
高校生になって、入部したばかりだというのに、バスケは好きなのに、そんなことでモヤモヤしている。
それに加えてユウをとりまく相関図だ。お互いに飛び交う矢印はキャッチボールを果たせないまま、俺もまた、何となく掲げかけていた自分の矢印を密かにとりさげようとしている。
社会の網の目の中に入って行きたくても、自分の周りを取り巻くカラクリが透けて見えるときに気付いてしまう。所詮俺が、そこで回すべき歯車はないって。
「陽太ぁ……」
「ん? どうした?」
陽太は荷物をさっさとまとめて、席を立とうとしていた。吹部は今日活動日じゃないようだ。おそらくだけど、帰宅部の、毎日ひとりでそそくさと帰っていく隣のクラスのあいつと帰るつもりなんだろう。
「……俺、部活やめようかなぁ……」
「はぁっ? どうした? えっと、ちょっと待ってて! 本当に待ってろよ!」
陽太はそう言うとカバンを机の上に置いたまま廊下に飛び出した。廊下からでもユウを呼ぶ元気な声が心地よく響いてきた。
ほどよい音量のBGMと、控えめな人々の声がちょうどいい。人波に近いところで、でもどこにも属していない感じも心地いい。
「やっぱりさ、こういうジャンクな味って時々欲しくなるよな」
「塩化ナトリウム的な味が濃いと夏って感じしない?」
「糖と脂と塩って組み合わせがそもそも神ってるんだって」
体調不良と偽って部活を休んだのは初めてだ。俺は結局陽太とユウに連れられて、駅前でポテトを食っている。
「何があったか知らねーけど、本当に辞めるのかよ、部活。まだ一学期じゃん。お前からバスケを取ったら何が残るんだ?」
今日の『ポテトを食いながら喋る会』のテーマはこれだ。俺が突然部活を辞めるなんて言い出したから、悩みがあれば聞いてやると二人が誘ってくれた。
「さぁ、何にも残んないんじゃないか」
「じゃぁなんでやめるなんて言うんだよ」
「卒業してから、本当に何にも残らなかったなぁって思いたくないからじゃないか。バスケは好きだけど、それでどうこうしたいわけでもないし。こういうのは気づいちゃったら早い方がいいんだよ」
「……?」
「……」
「バスケは楽しくて好きだけど、部活ってなるとさぁ、バスケ以外で頭も気も使うだろ?」
「バスケはチーム戦なんだから、それなりに仕方ないんじゃないか?」
「そうなんだけどさ……人の中にいるのが疲れるっていうか……」
狭い世界の中だけで共通認識されている妙な文化や、暗黙の何かにも疲れた。疲れている時点で、そこから離れた方が得策だと思う。
「やめて、どうするんだよ」
「……帰宅部かな、ユウと一緒に」
「は? 二人で帰宅部とかズルいし!」
「ズルいってなんだよ……」
ユウは呆れた顔で陽太を見るけど、陽太にとっては確かにユウの放課後独占権を俺に取られるような気分なんだろうな。
「でも大和は目立つからさ、バスケ部やめたってなったらしばらくいじられるんじゃないか?」
「そうだよな。錦織は結構目立つんだよ。なんでかな。背が高いから?」
「背が高くてスタイルがいいからだよ」
「そうなの? みんな同じ制服だとあまりわからないけど」
人の見た目の違いみたいなところに鈍感なユウはこう言うけど、みんな同じ制服を着ていても、明確な違いくらいあるぞ。実際、長谷川さんは一際かわいいじゃないか。
でも目立つやつが『らしくない』動きをする時こそ、人間っていうのはいじりたくなるんだろう。
「退部いじりなんて、言わせたい奴には言わせておけばいいんだよ。俺は何とも思ってないし。どうせ、人の噂も七十五日」
「お、間違えなかった」
「間違え?」
「四十九日! って、ちゃうやろーってさ!」
「……陽太、そういうのあんまり面白くないぞ」
「うん、面白がる単語でもないしね」
「えーっ、ユウごめん! そうだよな、面白がる単語じゃないよな!」
でも、なんとなく俺が重たくしてしまった空気を、陽太が引き上げてくれたのはわかる。
俺が意識するようになったのもあるかもしれないけど、そんな陽太のユウに対する距離感は、ここ一ヶ月で異様なほど近づいている。ユウの気持ちはさておき、長谷川さんがユウのまわりをトコトコしだした事にすっかり焦らされているのだろうか。
焦らずとも、ユウからこんなに親しくされている人間なんて、俺たち以外に多分いないのに。
「じゃあさ、いっそのこと吹部入れば!」
「……あぁ吹部……いいかもなぁ」
この際、部活なんて何でもいい。人波の大きなうねりが最小限に収まる環境、もしくは俺への影響が少ない環境……それか、俺が主体的に波に乗れる環境とか。
「えっ! えぇ!! マジで? じゃあさ、この流れでユウも吹部入ろうぜ!」
「前も行ったろ? 僕、楽器とか無理。楽譜読めないし」
そういえば不思議と3人でいる時だけ、俺は大きな影響をあまり受けないな。
「……あ、そうだ」
「どうした、錦織」
「吹部はともかく……」
「ともかくって何だよ!」
「今年の花火大会、3人で行かね?」
店の中からぼんやり眺めていた商店街の風景の中、デカデカと主張するポスターを見つけた。夜空に大輪の華を咲かせる地元の花火大会のポスター。日付は来月。
人波のうねりは気に障る
言葉にしきれないモヤモヤも手に負えない
目の前にある相関図に影響してはいけない
……たぶん、全部言い訳で、幻想だ。
周囲の人間関係の中に俺の入る隙がないと勝手に線を作って引き下がっていた。それらを決めていたのは俺だ。なんてつまらない選択をしていたんだろう。
「何なら小川と長谷川さんも誘ってみようぜ」
今の俺の周囲にあって、上手く回転できずにいる小さな相関図。
「え、小川!? 長谷川愛も? 何で!」
陽太はわかりやすく嫌な顔をする。
「5人である意味がよく分からない」
ユウは余計な人間関係に興味などないという感じだ。
二人は文句を言っているけど、それも理解できる。ユウは大人数が苦手だし、陽太はユウの周囲をトコトコと動き回っている長谷川さんや、中学の頃から何かと距離感がおかしい小川の言動に、気が気でないのだろう。でも、俺の言葉にしきれないモヤモヤと現実的に戦うべきタイミングは今だと思った。たまにはわがままなくらい主体的な提案をしたってバチは当たらないはずだ。
面倒くさそうな2人を確認するように見てから、それでも俺は、自分に言い聞かせるように言った。
「俺が5人で行きたいからだよ」
第5話「錦織大和」6443文字/完
最終話「青空と雨」へ続く
最後まで読んでいただきありがとうございます!