
no.26 / 『金の魚は森を抜けて空を摑む』(#日向荘の人々 / 連作短編集③)
ーー小説版ーー
※目安:約1.9万文字
「友太、最近クラスの奴ら、やたらギターとかはじめとるらしいで」
「んー、そんな感じだよね」
「友太はやらんの?」
「ん? ギターって見とるだけならカッコええけど、下手なやつが弾いとったらカッコ悪ない? 僕パスー」
「んなこと言って。最初はみんな下手くそだがね」
「ちょっと男子ー、実験中だよ」
僕、金森友太は元気な子供だった、らしい。
小さな時は、親と手を繋いで歩いていても、遠くで面白いものを見つけると、気づけば手を振り払いそこにいた。何に対しても、一瞬だとしても、その瞬間は全力で興味を注いでキラキラしたそれらに駆け寄った。お母さんは困って追いかけてくると、そんな僕の横で小さく何かを言っていた。もうだいぶ昔の記憶。
そんな僕の、あちこち向いていた興味の中に音楽が入り込んできたのは、中学一年生の時だった。僕は小さな時から、元気はあってちょこちょこと忙しないけど、性格自体はあまり目立たない子供。バタバタ落ち着かない行動は少しずつ落ち着いてきたものの、注意力は散漫で、この日だって理科の実験にどうも集中できない。教科書の中の写真が気になって、どんどん脱線した挙げ句、全然関係ないページをめくっていたところ、橋本からギターの話を切り出された。もはや実験なんて頭の中にない。
「金森くん、橋本の言うことなんて、ほっときゃあ」
同じ実験班の女子が僕を庇うように橋本を非難した。クラスで一番身体の小さな僕はいつまでも小学生みたいで、こんなふうに危なっかしいからか、男子からは揶揄われ、女子からは過保護な扱いを受けていた。よく言えばいじられキャラ。
「実は今日さ、西尾の家でギター触らせてもらうんだ。神谷の兄ちゃんもきて教えてくれるって。友太も来いよ」
女子たちの非難に負けじと、橋本は話を続けている。
「西尾? ギターやっとったんだ」
「誕生日に買ってもらったんだと。えーなー、四月生まれ」
「ふーん」
何月だって一年に一度、誕生日は平等にやってくるのに。
「で? 友太も行くだら?」
まあ、暇だし。クラスの流行くらいは知っておいて損はないかも。それに、見たことない楽器にもちょっと興味ある。
「……行く」
「おっしゃ!」
「ほら、男子ー」
その日遊びに行った西尾の家には真新しいギターがあった。それは僕が見たことのある木でできた茶色の大きなギターではなく、赤くてシュッとした、なんか機械に繋ぐとギュイーンとした音が出るエレキギターだった。
「おお、カッコえー」
「でらかっこえぇやらぁ? 友太も触ってみやぁ」
西尾がずいっとギターを僕の前によこす。
「え、いいの?」
楽器を抱えるのはちょっと怖くて、受け取らずに弦だけを弾くと、楽器からじゃなくて小さなスピーカーからギューンと音がした。
「おおお、すげぇ音!」
「でらかっこええ!」
僕と橋本がはしゃいでいると、西尾がもっとすごいことを言った。
「後で神谷がベース持ってくるで」
「ベース?」
「兄ちゃんが新しい楽器買ったから、お下がりもらったんだと! もう、一ヶ月くりゃあ教えてもらっとるみたいだで、少しは弾けるようになったらぁよ」
西尾はおじいちゃん達も同居しているせいか、最近の子供ではあまり使わなくなってきたような訛りや方言が頻出するのが特徴的だ。そうして神谷と兄ちゃんも合流し、バンドやろうぜって盛り上がって、楽器なんてまともにできない僕と橋本もなんとなく巻き込まれた。
「なぁ友太、お前んち、何か楽器あんのかよ」
帰り道、橋本がいじけたように訪ねてきた。僕も橋本もそれらしい楽器は未経験だったからだ。やるにしても親に頼んで楽器を買ってもらうところからスタートだと思うと、さっきまでの興奮が嘘のように、気が重くなってしまう。
「お姉ちゃんがピアノやっとる」
「友太は? 弾けんの?」
「ドレミが分かるくらい……弾けん」
「あかんがや!」
安心したように橋本が笑った。
「……お姉ちゃんに教わろうかな」
「ズル! じゃぁ俺何もないやん!」
「そんなん。バンドなんだし、歌っとれば」
「その手があった!」
次の日もその盛り上がりと話題は有効で、教室では西尾と神谷が見慣れない記号のついた楽譜を見ながら何かを話していた。真っ先に僕の登校に気づいた神谷が声をかけてきた。
「友太! おはよう」
「あ、おはよう」
「昨日の話考えてくれた?」
神谷が、さも当然と言う顔で昨日の話題を呼び戻す。
「ん? あ、バンド? あれまだ生きとったんや」
「生きとるよ、そら。友太んちさ、姉ちゃんがピアノやっとるんやろ?」
「……ん」
なんで知っとる。じとっとした上目を神谷に向けた。
「姉ちゃんに教わってキーボードやりやぁ?」
神谷の隣でこの会話を聞いていた西尾はそう言うと、ワクワクというかニヤニヤというか、複雑な笑みを浮かべはじめた。弾けるから教えろよとか、そうゆうの、サクシュって言うんだぞ。
「……橋本は?」
「あいつは、ボーカルやるって張り切っとるよ」
「へ、へぇ」
「橋本がさぁ、友太ん家にピアノあるって言っとって、だらぁ俺が歌うって言って」
「あいつ……」
すでに教室でふざけている橋本を視界の隅で睨みつける。でもこれで、楽器も経験もないからと言って逃げる訳にはいかなくなってしまった。ピアノは僕のじゃないのに。
「放課後、また西尾ん家に集まらんかって話。友太も来るやろ?」
「えー……家にあるのはお姉ちゃんのピアノだよ? キーボードは持ってないんだって」
「神谷が持っとる!」
逃げ道を塞ぐようにそれまで神谷の横で様子を伺っていた西尾が、勢いよく声を上げた。
「はぁ?」
「金持ちはえぇよなー。神谷の兄ちゃんはベーシストやけど、家にはキーボードもドラムセットもあるらしいで。一般庶民にはわからん感覚だで、なぁ神谷?」
「あ? ま、まあな」
僕と神谷の間にズイズイと割り込みながら、でかい声で西尾が無意識であろう圧をかける。僕だけでなく、神谷も若干気圧されてるじゃないか。
「でも……」
「はい決定。放課後俺ん家! 神谷のキーボードとベースは、俺運ぶの手伝うでな!」
僕は渋ったけど、有無を言わさずに放課後の予定が組まれた。こうして僕は、成り行きで音楽と出会い、友達の圧でバンドを始めることになった。
なんだかんだ言いながらも、勢いで中途半端に結成された中学生の拙いバンドは、神谷兄の協力も受けながらそれなりに活動していた。一番の変化は橋本がドラム兼ヴォーカルを担当する事になったこと。勿論これも神谷兄の指導あっての事だ。それでも僕たちは中学生。当たり前に時間が経過して、いよいよ高校受験の時期を迎えた。
「友太、二宮高校ちゃうん?」
西尾が、嘘だろとでも言い出しそうな顔で訊いてきた。そう、進学先問題。このメンバーでバンドを続けるためにも、なるべく同じ高校か、集まりやすい場所の高校にしようぜ、なんて示し合わせていた。その甲斐あってか、結局バンドメンバーは揃って二宮高校を受けるらしい。西尾もそのつもりでいたらしいのに、どこからか僕の志望校が二宮高校ではないと言うのを知ったのだろう。僕には残念ながら成績が足りないのだ。
「……僕の成績じゃ無理だからさ。先生に志望校変えるように言われとった」
「で、どこにしたん?」
「稲田東……」
「え? またえらく二宮から遠いトコ」
「しょうがないだろ。成績と学校のレベルが合うところ、先生と相談して決めたんだから」
僕の名誉のために補足しておくと、稲田東高校は特別レベルの低い学校なわけではなく、中の上くらいの高校だ。つまり、西尾をはじめとしたバンドの他のメンバーみんなが、バンド活動してるくせに成績が良すぎるだけ。
「今からでも巻き返して成績上げやぁ」
「簡単にいうなって」
「諦めたらそこで試合終了って誰かが言うとったやーん!」
「アンザイ先生だろ。昔の漫画だよ」
「そうか? 芸人が言うとったがね。テレビテレビ。テレビで見たって」
それは……漫画の名言をネタにしているだけなのでは。
「僕は、音楽は好きだし楽器頑張るのは楽しいけど、勉強は普通にできとればえぇからわざわざ二宮目指す意味がないし。バンドは違う高校行ってもできるしさ、たぶん」
「高校に行ったらオリジナル作ろうっつっとったやーん、学校別やら不便だらぁっ」
西尾はダラダラと項垂れるようなジェスチャーで僕を説得しているようだけど、高校が別でも活動なんてできるだろうと思って聞き流していた。
と、口ではあんなことを言っても、心のどこかではちょっと頑張ったくらいでは届かないみんなとの差を、少しだけ惨めに感じていた。だからこそ学校なんて関係ない。本当に、高校生になったらオリジナル曲を作ってみんなとライブもする! 僕は何かに言い訳をするように作業に明け暮れていた。
とはいっても……
神谷の兄ちゃんに続け! そう言って盛り上がっていたのに、いざ進学したら授業やら課題やらが大変でバンドどころではなくなり、入学してから一度も集まっていない。
高校生活での初めての定期テストが終わった日、夕飯後のリビングで、その気もないテレビのチャンネルをカチャカチャ変えながら、なんか面白いことねーかなぁと完全受身モードでダラダラしていた。
「はーぁあ」
「辛気くさ。何ぃ? ため息なんて。テスト惨敗やった?」
無意識にため息をついていたようだ。僕と一緒にぼーっとしていたお姉ちゃんが、半ば義務的に聞いてくれる。
「違う。バンド存続の危機」
「危機? なになに、何かあったの?」
危機という言葉に、ちょっと面白そうだなと言った様子で前のめりになっている。しかもそれまでついていた頬杖まで外して。僕のピンチはそんなに面白いのか。
「ほら、みんな二宮行ったでさ」
「友太だけ仲間はずれされた?」
「違う。学校大変で今は活動できないって」
「確かに。二宮なら、そりゃあ勉強大変でしょうよ。良かったね友太、無理にそんなとこ行かなくて。行っとったら今頃、バンドどころでもなく勉強だって落ちこぼれとったんでしょう」
「言い方さ……」
言いかけたところで玄関からお母さんの声がした。
「実咲ー、あなた宛に何か荷物よ、取りに来なさい!」
「あっ!」
お姉ちゃんはぱっと表情を明るくさせて、ポニーテールを翻しながらウキウキと席を立ってしまった。と思ったら、しばらくして緩衝素材っぽい封筒の開け口をペリペリと剥がしながら、丁寧に中身を取り出しつつリビングに入ってきた。
「そんなに大事そうに取り扱うなら、座ってからゆっくり開けたらいいのに。……部屋戻らんの?」
「友太との話がまだ途中だら?」
一応気にしてくれていたんだ。
「あ、ありがとう」
「で? 結局解散するかもしれないなら、最初からみんなと一緒に二宮受けとったら良かったって話?」
お姉ちゃんは手っ取り早く話を纏めたがる癖がある。再びテーブルに頬杖をついて、テレビのリモコンを操作して電源を消すと、話を続けろと言わんばかりにこちらを眺めている。
「違う。別に、無理に頑張って二宮行かんでも。勉強は普通でいいし」
「ふーん、じゃぁこのまま普通に勉強して、普通に進学して、普通に就職して、普通に結婚して、普通におじいちゃんになればいいだらぁ。ため息の意味がわからんで。バンドしたいんなら今の学校で仲間探したらええが」
「いや、だから言い方……」
「ま、いいや。友太が何か深刻に悩んでるなら相談に乗ろうかと思っとったけど、これは完全に友太自身の問題だし。もうあたしは部屋に戻ってこれ読むから」
僕としては深刻な問題なんだけどな。
お姉ちゃんはそのまま封筒から取り出し、馴染みのないサイズの本をパラパラと僕に見せびらかした。表紙に書かれた文字がチラチラとなびく。よく見えん。
「たくあん……? 変なタイトル」
「あんたねぇ、たくあんさんっていうのはこの本書いた人。『帰宅部シリーズ』の二次創作小説でちょっと有名だったんだけど、最近はほとんどオリジナルにシフトしたみたい。個人でオンデマンド本を結構頻繁に出しとるよ。これは『反宇宙主義団』っていうシリーズ。難しそうなタイトルだけどなかなか面白くてさ、あたし結構好き」
そう言って、今度はタイトルがよく見えるように表紙をガッツリ僕の方へ向ける。残念ながら僕は、今お姉ちゃんが言った言葉の意味が半分もわからない。外国語を通り越して、まるで宇宙語みたいだ。だけど、うちに届く本がたくあんさんのだけじゃないことは知っている。
「へぇ、じゃぁそれもBLなんだ」
「は? 決めつけ反対! 私は幅広い文学少女だで、たくあんさんのはちがうの」
僕はBLが何なのかもよくわからなかったけど、お姉ちゃんが友達と電話しながら時々発する、聞き馴染みのあるワードを口にしたら怒られてしまった。
「それに、一度だけ同人誌にゲスト寄稿したことがあるんだけど、超人見知りらしくて、その時は売り子なんかもしとらんかったから表立って姿を見せたことがないの。だで全て謎の人。あたしは、『お家の人にも隠れてひっそり活動しているお嬢様で、実はクラシック音楽とか古典文学とか、高尚な学問を学んでる人』だと、勝手に思っとるんだけどね」
「……名前、たくあんなのに? 超庶民的じゃん」
「それはカモフラージュに決まっとるがね。窮屈でハイレベルな生活の合間に自己表現として小説書いとるんよ。こういう人はミステリアスなの。で、きっとでら可愛い! いや、絶対に可愛い!」
「ミステリアス……? 名前、漬モンなのに可愛いの?」
お姉ちゃんの妄想は時々ついていけない。だいたい、息抜きなんかで小説って書けるものなのだろうか。僕なんて読書感想文だってままならないのに。
「使っているワードセンスから察するに、きっとクラシカルな文学が好きで、ものすごく沢山本を読んできた人やと思うの。それに独特な文体も読みやすくて切り口も新鮮。優しい雰囲気なのにロジカルで。ちょっと不思議な感じがする“ザ・たくあんワールド”にはまっとるファンも多いと思う」
「へぇ……」
全部聞き取れたのに、何言ってるか全然わからない。
「良かったら、友太にも読ませてあげる」
「え……ありがと」
そんなお嬢様が書いた本、僕が読んでも面白いのかなと思ったけど、試しに読んでみたら思ったより楽しくて、お姉ちゃんに三冊目の本を借りる頃には、すっかりファンになってしまっていた。
「友太! たくお嬢、グッズ出し始めた! 一緒にサイト見ようよ」
ある日、スマホを片手にお姉ちゃんが興奮気味に僕の部屋へ入ってきた。それにしても『たくお嬢』って………
「グッズ?」
スマホを覗き込むと、オリジナル小説のイメージっぽいデザインがプリントされたマグカップとかTシャツ、そのほか量産的な商品にオリジナルのデザインを施されたグッズたちがラインナップされていた。
「これ、たくあんさんがデザインしてるのかな、イラストレーターさんに頼んでるのかな」
「お嬢は絵も上手いんよ。本の表紙とか、友太も知っとるが? だからこのデザインも多分お嬢がしとると思うよ。うわー、このハンドタオルめっちゃかわいい!」
「へぇ、知らなかった。投稿サイト?」
「もう何年前かなぁ、あたしが中三くらいの頃に見つけたんだけど、最初は二次創作してて。今はもう二次創作は書いてないみたいだけど。あ、ほら! このTシャツ友太似合うんじゃない? カワイイカワイイ」
「ふーん……?」
ずっと何言ってるかわからない。けど、たくあんさんは何年も前からネットで活動していて、今は小説だけでなく漫画やデザインにも幅を広げている、という事はなんとなくわかった。
「友太もさ、ひとりでもこうやって何かしとったらええのに。お嬢みたいに」
「え?」
「ひとりでも続けとったら、いつか仲間が現れた時またできる。やめないって難しいけど大切だよ。あたしは、やめちゃったからさ」
「うん……」
お姉ちゃんは高校生になってから、それまで習っていたピアノを辞めた。プロになる訳じゃないんだから勉強に集中しなさいとお母さんに言われて、その通りやめてしまった。確かに、プロなんてものと天秤にかけられたらそうするしかないんだろうけど。お姉ちゃんはそれで本当に良かったのかな。
「友太が本当に音楽が好きなら、あたしは応援するよ」
「……ありがとう」
高校生になったらオリジナル曲を作って、バンド活動も頑張ろうぜって言ってたのに、結局『落ち着くまで休止することにした』という連絡が来た。僕は高校受験が終わった頃から、これからの活動を楽しみに作曲とか頑張ってたのに。
『ひとりでも続けとったら……』
『あんたもこうやって……』
自分の部屋に戻っても、お姉ちゃんの言葉が耳の奥でずっと響いていた。たくあんさんは、どんな思いで活動しているんだろう。お姉ちゃんの妄想ではあるけど、もし本当にお嬢様で、高尚な勉強をしていて、たくさんの文学作品を読んで、それでも周囲に内緒で活動しているのだとしたら、それほど小説を書くのが好きなんだろうな。そう思った。何歳のどんな人かもわからないけど。
僕も、最初は半ば強制的にバンドのメンバーにさせられたくせに、今では『休止』なんて言葉が寂しくなるくらいには音楽も活動も大好きになっていた。キーボードだって上手くなったし、スマホのアプリでだけど、それっぽい曲だって作れるようになった。曲を作るなら楽器ができてリズム感があった方がいいなと思って、高校では女子に混ざって吹奏楽部に入りドラムを始めたし、またバンドのみんなと会う時までにできるだけたくさん曲を作ってびっくりさせようと思ってたのに。
お姉ちゃんから借りているたくあんさんの本を眺めながらしばらく考え込んでしまったけど、辞めないために、ひとりでいても曲を作ってみようかな……。お嬢は何年も一人で活動してきた。僕もそうやってたら、いつか好きなことがたくさんできたりするのかな。お嬢みたいに、なれるのかな。
僕は音楽ノートを机の上に広げて、今の気持ちを、ただただそのまま音符にしてみた。
……でも、そこからはなんだか悲しい音がした。
夏休みが終わる頃、自分の部屋で宿題の追い込みをしていたら西尾からメールがきた。
「お! もしかしてバンド再開?」
計算途中の問題なんてほっぽって、わくわくしながらメールを開く。
『神谷の兄ちゃんが東京のレーベルからCD出すぞー! メジャーデビューや!』
「……」
わくわくが一気に冷める。神谷の兄ちゃんには恩がある。頼りにもしてたし、このニュース自体は嬉しい。なのになんだろう、素直に喜べなかった。そんな自分にもちょっと腹が立つ。
「……だからなにて」
僕は椅子に座ったまま、ベッドの上にスマホを放り投げた。
「だから、なにて……」
返事はなかなか打てなかった。ようやく返事をする気になったのは夜になってからのこと。
『発売日決まったら教えて』
という短い一文をやっと送ることができた。
二学期の文化祭が終わる頃、予約注文していたCDが届いた。めちゃくちゃ格好良い音楽だったのに、兄ちゃんのベースの音が、僕の心を押し沈めていくみたいで、ものすごく苦しい。
だからなのかもっと前からだったのか。いつからかわからないけど、僕は僕の夢を思い込むようになって、絶対に音楽の仕事をしてやると意気込むようになった。東京の専門学校に行って、音楽の仕事に就く。職種は音楽業界なら何でもいいけど、できればミュージシャンで。きっとそういう学校に行けばバンドメンバーも見つかるだろうし、自然消滅寸前のバンドに未練はない。
『専門学校に通っている間に絶対仕事につなげてみせる。プロを目指すならやめなくていいんでしょ』
そう言って親を説得し、お姉ちゃんはどこか納得いかないものがあったようだけど、そんな僕の味方になってくれた。
自己流で、スマホアプリで曲を作り続け、一度はお嬢みたいにどこかへ公開してみようかと思ったけど、その勇気が出ないまま高校を卒業して上京することになった。
今まで誰に聴いてもらうでもなく、自分のフォルダの中で窮屈に溜め込まれた曲たちは、学校で出会った人たちのそれとは全然レベルが違った。バンド活動然りソロ活動然り、人前で披露してレスポンスを受けてきた彼らと僕とでは、その仕上がりは雲泥の差だ。一緒にバンドやろうよとは、なかなか言い出せないくらいにみんなが輝いて見える。
積極的な学生は学校に通っている間も、音楽関連のアルバイトとかコンテストとかオーディションに参加して、成果を上げる人もいた。二年になる頃には学校を通して音楽制作事務所から声がかかったり、レコード会社から声がかかったという噂も聞いた。
僕には時間がない。卒業までに仕事に結びつけないと、家での約束を破ることになる。あと一年を切った。僕は何をしたらいい?
少しずつ暑くなって、エアコンが必要になってきたころ、懐かしい名前がスマホにデカデカと表示された。
「友太、ひっさしっぶり! 夏休みどうすんの? 東京の学校行ったって聞いたから、休みは帰って来んのかなって思ってさ」
橋本から久しぶりの連絡だった。
「就職活動っていうか、もういろいろ忙しいで、今のところ帰る予定はないよ」
「え? 四大ちゃうん? 短大? 専門?」
「専門」
「そっか。俺たちは地元の四大に落ち着いてさ、二年って結構暇なんだよな。夏休み久しぶりにみんなで遊ばんかってなっとるんだけど、友太は、無理?」
「今はわからん。たぶん、無理」
そうか。みんな大学生になったんだ。
「みんな、元気?」
「おお、元気。そういえば神谷の兄ちゃん、こっちに帰って来てさ。契約切れだって。プロの世界は厳しいよなぁ。今は音楽続けながらバイトしとるって」
「……ふーん……」
兄ちゃんでも、無理だったのか。
「西尾は国立だろ、神谷と俺は私大。まぁ二宮からは東京行ったやつも多いけど、俺たちはみんな地元におるよ。だから友太が東京行ったって聞いてびっくりしとった。専門って何の専門?」
「……」
兄ちゃんでもダメだったのに、僕なんかが今も音楽やってるなんて、とても言えない。
「……友太? 聞こえとる?」
「……聞こえとる」
「今は予定立てれん感じ?」
「……だね」
「じゃぁ、帰って来れそうなら連絡くれよ」
「……わかった。多分無理だけど」
「そっか、一応連絡待っとるで。じゃぁまたな」
橋本が通話を切って、暗くなっていくスマホ画面をぼーっとながめていた。楽しそうで余裕のある声だったな。二宮高校出身者が行く地元の国立大なんてエリートコースに決まってる。神谷と橋本だって、相当なレベルの私大なんだろう。なんだか、僕ばっかり余裕がなくて、将来もしっかり見えなくて、落ちこぼれで情けなくなる。そんな呆れた気持ちのまま、暗い画面に映る自分の顔を冷ややかに見下ろしていたら、急に画面がパッと光って、再び呼び出し音が鳴った。
「は? お姉ちゃん……」
表示された文字は『金森実咲』。お姉ちゃんだった。
「もしもし、なに」
「友太、元気? 毎日暑いね! どうしてるかなって思って。学校楽しい?」
「ごめん、切っても良いかな」
「嫌ぁよ、何ぃ? 失礼やん! 怒らせること言ったつもりもないんだけど!」
「ちがう、僕がそのテンションで話したい気分じゃない」
「どうせまた何かあったんやろ」
「……ついさっき橋本から電話があって」
「へぇ、みんな大学生活を謳歌しとるよーって? なに、それ聞いてへこんどった?」
「……」
なぜわかった。
「何ぃ。友太何のために東京の専門学校行っとるね。何のために音楽の勉強しとるのよ」
「音楽業界で仕事するため」
「なんで音楽業界で仕事したいの」
「え?」
「自分でもそこが解っとらんのに、友達が楽しそうに大学生活送っとることをイライラして見とるんでしょう? まぁいいや。たまには帰って来やってお母さんが言っとったで、夏休みの予定とか聞こうと思っただけ。今はええわ。話にならん。また連絡するでね。元気出すんよ。じゃ」
お姉ちゃんは、電話越しなのに嵐のように去っていった。僕以上に落ち着きのない、でもいつもエネルギッシュで、集団の中にいても比較的目立つ存在なのが僕と違うところ。いわゆる陽キャ。お姉ちゃんの観察眼はさすがだけど、僕はそんなふうに前向きに振る舞えないよ。
夏休みに実家に帰るのかどうか、就職するのかしないのか。全部決めあぐねて、僕はイライラを募らせて焦っていった。そんな矢先、在学中なのにメジャーデビューが決まったという別科の学生の話題が、クラス内でも持ちきりになっていた。
「先生、今少し相談してもいいですか。進路のことで」
「おお金森くん、どうした」
「メジャー決まった子がいるって、その、噂で聞いたんですけど。本当ですか」
「いい噂は広まるのが早いなぁ」
「そういう学生って、毎年いるものなんですか」
「たまにそういう学生はいるんじゃないか」
「僕、卒業までに絶対に音楽の仕事を見つけるから、絶対にプロになるからって約束して東京に出て来たんです」
「そうだったのか」
「でももう二年生で。進路が決まったり決まりかけたり、コンテストで良いところまで行ったり。同じ学年の人達が成果を出すたびに、何も変わらない自分に焦りしかなくて」
「気持ちもわからなくはないが、少し焦りすぎじゃないのか? まだ前期だ。みんなそれぞれのタイミングがあるし、これからいくらでも可能性はある」
……でも。
「金森くんは作曲家として活動したいのか? それとも作曲もできるプレイヤーになりたいのか?」
「音楽関係の仕事なら……とりあえずなんでも」
「うーん、進路もそうだけどな、そういう自分の強みや目標に気付くためにも、まず金森くんは焦らずちゃんと自分と向き合う時間を取る必要があるのかもしれないな」
「どのくらいですか? どのくらいの時間をかけたらわかりますか! 卒業までに成果に繋がりますか?」
「どのくらい、って……言ってもなぁ。個人差があるだろうし」
「個人差って、才能があるとか素質がいいとか、そういう事ですか!」
「そういう事じゃない」
僕の質問に被せるように先生は否定したけど、こっちはもう止まれなくなっていた。
「先生! もうええから僕に無理なら無理だって言ってよ! みんな優しい言葉で諦めるなとか頑張って続けとったらいつかきっとって残酷な事言っとるが、そんなん望みないんなら、お前なんかさっさとやめやぁって言ったらええがね! 無責任な応援なんかいらんで!」
「金森、少し落ち着きなさい」
「だって、先生みたいな専門家に『お前には素質も才能もないんだ』って言われなきゃ諦めれんがや! 見込みがないなら無理だって言ってほしい!」
僕は、ここが学校であることも忘れて大声を出していた。けど、勢いに任せた言葉は一通り吐き出してしまったから、ただ興奮したまま大きな呼吸を繰り返すだけで、言葉に詰まって無言になってしまう。
「金森くん、あのな。スポーツのシビアな世界なんかと比べると、音楽の世界に持つ夢は無理に諦める必要はない。諦めないで続けていないと、掴めるものも掴めない事だってある。それに教師が学生の夢を潰すなんてできるわけないだろう」
「じゃぁ、いつ諦めたらいいんですか。卒業しちゃったら誰も止めてくれなくなる。自分で諦めるとしたってあと一日、あと一日って、決断するのが怖くなると思う。……そうやって見えない夢とか奇跡とかを信じて縋っても、現実が目に収まった時、いつも死にたくなるほど苦しい。……だったら最初から夢なんか見ないほうがいいんじゃないか、って。全部やめて無かったことにしたら楽になるのかと、思いたく、なります。それでも諦めたくなくて、だからこそ自分を信じ続けるなんて、口だけみたいで、すごく嫌です」
先生は、少しだけ冷静さを取り戻した僕の様子をほっとしたように見て、話を再開させた。
「俺はね、やる事全部やったと思えた時、それでも夢が叶っていなかったら、その時は驚くほどあっさり諦められるんじゃないかと思うことがあるよ。人に言われて諦めようとしたって、心の奥では諦め切れないものなんだ。それに、そこまでやり切った時には夢が叶っているかもしれない。そんな後ろ向きなことばかり考えるよりも、金森くんはもっと自分に期待して、希望を持て。最悪のことばかり考えるのはあまり良くないぞ。頑張りは、どこかで見てくれている人がきっといるものなんだ」
「そんな不確実な存在に期待しとるなんてアホや。いつかきっとなんていう奇跡なんやこの世にはない。結局この世の中は全てパーフェクトなベースの上に才能がある奴しか認められんのだって。コミュ力とか愛敬とか見た目とか知性とか話題性とか。売れそうな人だけが組織に見込まれて、売れるから世の中に受け入れられる仕組みになっとる。絶対そうだ……」
「そんなに卑屈になるなよ……」
「僕、卒業までにちゃんと音楽業界で仕事見つけたいんです」
「卒業まで、か。選ばなきゃそれなりにあるとは思うけど、焦って決めても、金森くんの強みを活かせる場所じゃないと長くやってくのは辛くなるだけだぞ。まず自分自身と向き合いなさい。今はこれで良いかな」
「……」
「悪いね。次の予定があるんだ。相談はいつでも聞くから。あまり自分を追い詰めるなよ」
「ありがとう……ございました」
学校の先生というのは流石だなと、そのわずか一年後に実感することになるのだけど。
卒業までに何とか就職をした僕は、CDショップを展開する会社の本社で働くことになった。社名を聞いたお母さんは、音楽の勉強をしたからこそ決まった就職先だと思ってくれたみたいだけど、お姉ちゃんには『あんた、何やっとんのよ』と呆れられた。
僕としてはまず、少しでも音楽業界に関わりながら働いて、それ以外の時間で音楽を続けようと思ったからこその決断だった。だから東京に残って就職したわけだし。でも現実は、そんな余裕はないし、日々他人の活躍を把握していくだけの、辛い仕事だった。
八月中旬。世間はお盆休みが終わった頃、久しぶりに橋本から電話がきた。なんや、橋本からの電話が、鬱陶しく感じるようになった。今度はなんだよ。
「友太、今度のシルバーウィーク、なんか予定ある?」
「え、仕事だけど」
「は? 休みじゃねぇの? あ、そういえば就職おめでとう」
「あ、ありがと」
「で、休めんわけ?」
「有給使えば休めなくもないけど、予定ないから申請してない」
店舗は稼働しているから本社も稼働しているのだ。付与されたばかりの有給をさっさと使う計画を立てるのも、なんだかガメツイかなぁと思って出勤の予定にしていた。
「なら、休みとってこっち帰ってこいよ。就活前にみんなで遊ぼうぜってなっとるで。来年はもう遊べんし」
「えー……」
「仕事、休みたくないほど楽しいんか」
「いや、そういうわけじゃ」
むしろ辛くて休みたい。
「俺たち就活これからだから、友太の話も聞かせてほしいし」
「僕の話はなんも参考にならんよ」
「んなことないがやー」
「いい事もなんも無いし」
「ええ? じゃぁ愚痴聞いたるわ」
「いいよ、別に」
「じゃぁさ、その気になったらすぐ連絡くれよ。シルバーウィークの間はダラダラみんなで会って遊ぶ予定だで。そのうち一日は映画行こうかってなっとる」
「映画?」
「九月に公開する、アニメの実写化のやつ。漫画、中学の時流行ったやらぁ」
「……あぁ」
「あれ、公開開始がちょうどシルバーウィーク初日で」
それは正直なところ、少し気になる。
「だからさ、予定はそれなりに決まっとるで、そこに合流する感じで気軽に帰ってこいよ」
「うん、考えとく」
「じゃあな」
「……うん。じゃぁ」
通話を切ると、間髪入れずに再び着信が鳴った。今度は金森実咲……。なんなんだこいつらは、いつも電話のタイミングが一緒じゃないか。
「もしもし」
「あ、友太! ちょっと誰としゃべってたのよ。何度もかけたんだからね」
「いや、その……橋本」
「また橋本くん? あんたら仲良いのね、今でも良く連絡とっとるの」
「良くって、一年振りくらいだったけど」
「えっ! じゃぁあたしとタイミング被ってるだけか」
「で、何」
「シルバーウィーク、どうすんの? なんか予定あるの?」
……考えてることまで一緒かよ。もう、これは一度帰っておこうかな。
「友太? おーい!」
「何も予定ないけど、もし休み取れたら帰ろうかなって、今思った」
「休み取るって、祝日も仕事なの?」
「言わなかったっけ。店舗が休みないで、本社も常にローテーションで休みとるんだって」
「そうなんだ。じゃぁ、帰ってくんのね?」
「今から休みが取れたら、だけど」
「意地でも取ってきなさい! あたし友太に言っときたい事あんで」
「何ぃ?」
「聞きたかったら帰って来やあ!」
ブチっと聞こえてきそうな勢いで通話が切れた。なに怒ってんだろ。
公休と有給を併用させ申請した長期休みが、奇跡的に取れて地元へ帰った次の日、早速映画館へと向かった。久しぶりに自転車に乗って集合したショッピングモールの中にある映画館は、とても大きいのにものすごく混んでいて、こんなにたくさんの人が楽しみにしてる映画なんだなとワクワクした。
元々の漫画やアニメが好きな人も、実写版の俳優が好きな人も、もしかすると監督が好きな人もいるかもしれない。でも僕は約100分の間、圧倒的な音楽に思いもよらず打ちのめされて、上映が終わる頃には何も言えなくなってしまった。
「お、友太がおとなしい」
「つまらんかった? 友太このアニメ見とらんかったん? 漫画は知っとるよな」
「それとも実写版でガッカリしとるんか?」
「す……」
「「「す?」」」
「っっっげーーーーーーっ! なんやあの音!」
僕は感動のあまり大声を上げて興奮してしまっていた。
「友太! おちつけ!」
「まだここモールだって!」
「人おるて!」
三人になんとか落ち着かせてもらって、モール内のフードコートで少し遅めのお昼を食べた。
「これやこれやこれや……」
「大丈夫か、こいつ? さっきからずっとブツブツ言っとるが」
「さぁ? 知らん。おい友太、ラーメンのびる前に食えよー」
「なんや、中学ん時と何も変わらんじゃん。ま、ほかっとこ」
「友太? こんな状態で、このあとケッタ漕いで帰れるか?」
「橋本、友太が落ち着くまでおったらええで。このあとどうしよっか。ここでのんびりしとくか」
みんなが話す声を耳に通しながら、でも僕は一刻も早く家に帰って曲を作りたかった。映画って俳優さんが一番目立つところにいるけど、そうじゃん、音楽って絶対必要じゃん。そう思って、たった今自分が打ちのめされた音楽に近いものを、すぐに僕自身でも作ってみたくて仕方なくなった。これがやりたい!
どうやって帰ってきたのか、無事に自転車を漕いで夕方頃実家に着いた。早速曲を作ろうと思ったけど、そうだ、パソコンがない。
「あーあ、パソコン持ってきたら良かった」
「パソコン? 何ぃ、あたしのじゃいかんの?」
「曲作りたいで。スマホでもできないことはないから、スマホでする」
「ふぅん。ね、友太」
「何ぃ? 曲作りたいんだけど」
「そのことでさ」
「ん?」
「あんた、今の会社で何やっとるの」
「え?」
「部署っていうの? あれ。何しとんの」
「……新譜の管理……」
「なるほど。あんた、本当にそのままでええの」
良いことはない。他人の活躍ばかり管理して、自分は何もできていない。でも仕方ないじゃないか。生活もあるんだし。
「音楽って東京じゃないとできんわけ? テレビ出たりする感じで成功したいわけ? 友太はどうなりたいの」
「え? 今はプレイヤーというよりは、作曲の方が……」
「お嬢さ。どこに住んどるかわからんけど、お嬢のやり方は多分どこに住んどっても再現できるヤツやと思うの」
「……どういうこと?」
「友太もちゃんと発信しやぁ。仕事が忙しすぎるんなら、活動できる環境探して、仕事変えたってええだら」
「転職ってこと?」
「こっち帰ってきてもええし、別にバイトしながら音楽しとる人だって多いが。どこにいたって、燻っとったら誰にも見つけてもらえんのよ」
そうかもしれないけど。
「友太、昨日帰ってきた時、すごく元気なかったよ。仕事楽しくないんかなーって思った。仕事も、今の生活とか活動スタイルとかも、楽しければいいかなと思っとったけど、あの顔は違うやろ」
……なんだよ、それ。
「そんなんじゃ、上手く行くもんもいかん。絶対に発信しやぁよ。東京に帰るまでにどこで発信するか決めて、あたしに報告すること。課題や」
一日の内に、感情がすごい速度でいろんな方向に揺さぶられて、僕は改めて、たくあんさんを思い出した。一人で活動を続けているたくあんさんのやり方なら、お姉ちゃんのいう通り何かの参考になるかもしれない。色々調べてみると、小説を投稿しているサイトは一つだけで、十年前からそこで小説を公開していたことが分かった。プロフィール欄は「帰宅部シリーズが好きです」だけ。DMも解放されていない。最初は二次創作を公開していたみたいだけど、六年前くらいから徐々にオリジナルの小説にシフトしていった様子だ。URLが一つだけ貼ってあって、その先はオリジナルグッズの販売サイトをいろいろまとめたリンク集だった。各注文ページに移動することができて、本やグッズなどはそれぞれそのサイトから買える。僕がたくあんさんの本を買い揃えたサイトも並んでいる。特徴的だったのは全て受注生産の発送方法を取っていたこと。SNSは一つやっているみたいだけど、告知が主で投稿は少ない。でも告知には毎回それなりの反応があり、フォロワーは万を超えていた。フォロワーを増やすのは大変そうだけど、たくあんさんのスタイルなら、真似できるかも。音源の発信場所はよくわからなかったから、ひとまず動画サイトですることにした。とりあえずお姉ちゃんに報告すると、サボってないか時々チェックするからチャンネルを教えろと言われた。速攻でチャンネルを開設して、まだ空っぽのそこを教えてから東京に帰って来た。
僕があの時、映画を見て何に圧倒されたかというと、日常や感情が全て適切な音で表現され尽くされていたことだった。原作が漫画だからこその派手なシーンはたくさんあったけど、むしろそれ以外のささやかなシーンが、僕には衝撃的だった。
僕もそんな音楽が作りたくて毎日作曲していると、仕事をしていても電車に乗っていても、次から次へと頭の中に音が溢れてくるようだった。充実した日々は過ぎるのが早い。あっという間に秋が過ぎて冬になり、春が来る。
もっとたくさん時間を充てたい!
今のままじゃ時間が足りない!
そう思ったら行動は早い。僕の気持ちを掻っ攫うキラキラに駆け寄っていった子どもの頃と同じ。そこに到達するために、全力でやれることを次々と片付けていく。
生活固定費を抑えるために安いアパートを探して、会社に退職届を出し、アパートの近くでアルバイトを決めた。部屋を借りるにあたって、一度実家に帰って一部始終を報告したら、お姉ちゃんは『やっとかね』と笑ってくれた。
「よし。ここで好きなだけ曲を作るぞ」
四月、世の中の新生活シーズンピークが落ち着いた頃、僕の引越し作業が無事に終わった。中途半端にたまっていた一人暮らしの荷物は処分して、実家に置いてもらえるものは実家へ送ってしまった。音楽を作るための空間としてストイックな部屋にしたかったのと、激安昭和アパートにあまり多くの荷物が似合わないような気がしたから。勿論、お嬢の本は全部持ち込んだけど
僕の部屋は202号室。西隣は封鎖されているということで空室。いわゆる事故物件ではないらしいけど、床に穴が空いたのだとか。東隣に住む大井さんは公務員として役所勤務をしているらしく、背筋のピンとした武士のような人。上半分が太い黒縁で下半分が細い銀縁のメガネをしていた。
真下に住む上田中さんは、小柄で可愛らしい第一印象の人だったけど、ちょっとクールで僕より年上だった。ややゆったりした卵形のメガネをしている。その隣の鳥海さんは、上田中さんの次に会ったから驚いたけど、逆にものすごく背が高くてにぎやかな人。マイペースで飾らないようなところが、少し好印象だった。この人もメガネをしていた。フレームが少し大きく見えたのは、メガネが大きいからなのか、鳥海さんが小顔だからなのかはよくわからない。101号室の人は昼間挨拶に行った時は不在だったみたいだから、これから挨拶に行くところだ。
コンコンコン
「はーい」
このアパートにはインターホンがない。ブーとなるだけのチャイムさえもない。だから呼び出す時はこうやって扉をノックするしかないのだけど、呼ばれた方も声をあげて返事するしかないのだ。今どき原始的だ。
ガチャ……ギィ
「はい?」
扉が開いて、中からまんまるのメガネをした、物静かな人が出てきた。あれ? このアパートの人、もしかしてみんなメガネかけてる? 僕も黒縁メガネだし。
「えっと、僕昨日引っ越してきた金森といいます。昨日ひと段落した時はもう夜だったので、今日改めて挨拶にきました。よろしくお願いします!」
「あ、こちらこそである。よろしく、僕は河上翔である」
「あの、良かったらこれどうぞ! 僕の地元のお菓子ッス!」
「どうも。あ、ういろう。……いただくである」
そんな挨拶を簡単にしていると後方から声がした。
「あれ? 金森くん。昼間はどうも」
102号室の上田中さんだ。それと大井さん。二人してスーパーにでも行ったのだろうか。大きな保冷バッグを下げている。一緒に買い物行ったりするんだ。
「そうだ、金森さんと、えっとカワキタ…」
「……河上で、ある……」
「ああ、すまない河上さん。よかったらみんなで夕飯食べませんか。ちなみに俺とイチ……上田中さんはいつも103号室で鳥海さんと食ってるので。ちなみに今日は冷しゃぶ……まぁ少し多めに買ってきたし、足りるだろう」
「え? みんなで一緒にご飯食べてるんスか? いいスね!」
「俺たち今からたくちゃんの部屋に行くけど、二人はどうする? すぐ行けそうなら一緒に行く? 後ででもいいけど」
「あ、僕鍵閉めてきます! すぐ戻ってくるんで、待っててください!」
「じゃぁ、えっと、僕もご一緒させてもらうである……」
「すまないが、箸は自分のを持ってきてくれ」
「はーい」
「了解である」
こうして鳥海さんの部屋で夕飯を食べるようになってから一週間ほどしたある日、何気なく眺めた本棚に見慣れたものを見つけた。
「あれ? これ……」
まさかとは思ったけど、よくよく確認しても、本棚に並んだ本の背表紙が、僕の部屋にあるものと一緒だった。実家を出るときにお姉ちゃんが買ってくれたのと、その後にちょっとずつ揃えた、お嬢の本。こんなところでも出会えるとは思わなくてちょっと嬉しくなった。鳥海さんもたくあんさんのファンなのかな。
「んー? なに?」
僕の声に何となく反応してくれた。
「その、えっと……その本棚、たくあんさんの本、ですよね? ネットで売ってる」
「ええっ!? あ、そうだねぇ」
さっきまでニコニコしていた鳥海さんは、思いの外動揺したそぶりで急にキョロキョロと視線を泳がせ始めた。
「僕凄いファンで、本全部持ってて。鳥海さんも全巻揃ってるから好きなのかな、気が合うなぁって本棚見て思ってたんスけど、その……」
「へ、へぇ……?」
そのまま机の上に視線を移すと、タブレットの上に校正版の冊子が乗っていた。ん? 校正版? 熱烈なファンだってこれを持っているとは思えない……あれ? もしかしてこの本棚にある本はファンが好きで買い揃えたものではなくて……。チラリと鳥海さんを確認すると、僕の視線の先を確認したみたいでヤベッという表情を見せた。更に、何か言い訳を考えているように挙動が怪しい。明らかに怪しい。……まさか
「えーーーーーっ! お嬢っ!?」
「お嬢っ??」
言われた鳥海さんも変な声を出して、僕の放った『お嬢』をオウム返ししている。ってかこれ、まさかの続編かよ!
「うそっ! え? ホントに? たくあんさん!?」
「ってか、お嬢って何だよー! ケヒャヒャヒャーッ!」
「姉がたくあんさんのファンで、勧められて僕もファンに。やばっ、え? マジやば! なんで?」
「えー、こっちの方がやべーんだけど」
降参するように手を挙げて、脱力するように椅子に座った。
「なるほどー。はぁー、上手く身を潜めてたと思ってたのになぁ。こんな日が来るとはなぁ」
「安心してください、言いませんよ! 絶対に、誰にも。お姉ちゃんにも! で、これ続編ですか? あぁ、今見たい! いや、でも買いたい。うわーどうしよう!」
「あ、そこは買ってくれる方が嬉しいよね。で、お嬢ってなに」
困惑した表情で話を戻されてしまった。まぁこんな強烈なワード、スルーはできないか。僕はみんなの前で『お嬢』について語った。
「おおー! ひっそり活動してるのは合ってるな! けどその設定はすげー、ひとつ話が書けそうジャーン! ヒャーーーーッフゥ! おもしれー! キツネのお姉さんすげーな! ヒャヒャヒャ」
「……なんか、勝手にすみません」
「というか、拓人はそんな有名人だったのか」
「メガネも俺を敬え! ヒヒヒヒヒ」
「断る」
たくあんさんが気分悪くしたらどうしようかと思ったけど、そんな事なくて良かった。
「ってか残念だったな、正体がこんなヤツで。お姉さんが知ったらゲンメツしちゃうかなぁ」
「そんな事ないと思うけど、内緒にしまッス! 僕、たくあんさんの正体が鳥海さんで、なんか嬉しいっス! これからたくあんさんって呼んで良いですか?」
「あ? うん、何でもいいよー」
「ね? メガネさん、102さん、ござるさん。たくあんさんは凄い方なんですよ! わかります? 僕のこの熱量!」
「なるほど」
「たくあんとはすごいネーミングセンスである」
「キツネくんよく分かったね」
「それはもう! 102さんも良かったら読んでみてくださいよー。僕も全部持ってるし、たくあんさんのだって全部ここにあるし。全集が2セットもあるんですから、読み放題ですよ!」
「俺としては買ってくれた方が嬉しいけどねぇ」
たくあんさんがニコニコ笑った。
お姉ちゃん、たくあんさんは『お嬢』じゃなかったけど、ボサボサ頭でニコニコイケメンの眼鏡お兄さんだったよ、教えるつもりはないけどね。
ついでに、僕も作った曲を動画サイトにアップしてるって言ったら、たくあんさんはアドバイスまでくれた。今発信している動画サイトから収入に繋げる方法を試したらどうかという提案で、フリー音楽素材サイトを作って、アフィリエイト収入を得るという方法だ。
そんなこんなで、クリエイター仲間でもあることが判明した僕とたくあんさんは、その後もたまに戦略的な話をするようになった。フリー音楽素材のサイトで、マネタイズの導線もアフィリエイト収入も、少しずつ安定してきたある寒い日。
「ねぇたくあんさーん」
「なんだよ、なんか嫌な感じしかしねー」
『空気が読めない男』を自己申告してくるたくあんさんでさえ嫌な感じがするなんて、僕の企みが見透かされてしまったのだろうか。
「えっとね、近々たくあんさんからマーケティング学びたいのですがね、よろしいですか」
「えー、なんでだよ? そんなカタカナ知らねーよ」
「僕も、お嬢の真似をしようとしていろいろ研究していた時期があるんスけど、せっかくたくあんさんご本人に出会えてタイムリミットも近いことですので、満を持して直接教えていただこうかと」
勿論、ロウドウノサクシュにならないように貢物はするつもりだ。
「っていうかフリー音楽素材サイト、それなりに収入出て来たんじゃないの? もうそれでいいじゃん」
「だってぇ、バイトのシフトもう少し減らしたいんスよー」
「俺の知ったこっちゃねーだろ」
「たくあんさんみたいに専業になりたいんですってばー。いいなぁ、引きこもり作家。憧れッス」
「じゃぁあれだ! アフィリエイトだけじゃなくて、他の方法も考える。動画サイトを拡充させてそっちでも収益化させるとか。複数の収入源とリスクの分散ってやつだ」
「おお、動画サイトの拡充っスね。他には何かあります?」
「そんなんてめーで考えろよ!」
「えー、そこをなんとか!」
「……二人とも少し黙って食え」
「たくちゃん声でかい」
「キツネ氏、その話は食後でもできるである」
そうだった、今はご飯中だから。仲良く鍋をつついていたら、いろいろ話を聞きたくなっちゃって、ついつい騒ぎすぎた。でも楽しいんだから仕方ない。先生の言っていたことは本当にその通りだと思う。自分の強みや目標に気付くことも、自分を活かせる場所も大切。まだ何者でもないけど。あぁ、なんて素敵な毎日なんだろう。狭い日向荘から見える世界はこんなに広い!
「あ、もしできたら話題性を狙ってコラボとかもしたいなぁなんてね! ねぇたくあんさん、いいっスか?」
「はんへ(なんて)?」
「「「だから、その話はメシ食ってから!」」」
《金の魚は森を抜けて空を摑む・完》
ーーフルボイスアニメ版ーー
【朗報】動いて喋る住人たちを覗き見れるのはこのチャンネルだけ!!
▶︎いつもは見せない「元気な笑顔の下にある」素顔のキツネくんを202号室でこっそり見守れる【連続アニメ小説『日向荘の人々』旅立ち編 ep.202「金の魚は森を抜けて空を摑む」】はこちらからご覧いただけます
【声の出演】
金森友太/成林ジンさん
金森実咲/EA011さん
鳥海拓人/韮山蒼太さん
▶︎小説版では描ききれていなかった、住人たちの出会い編と、そのシナリオアイズ版(脚本)もよろしくお願います!
▶︎わいわい楽しい【日常編】もついに完結!
全てをそこに置いてきた!!
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