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【小説】KIZUNAWA㊲        監督ルーム

 這いつくばっても前に進む若者たちを、沿道から多くの人が見ていた。スマホを片手に動画を撮っている。その映像は一気にネットの世界に拡がって行った。そんな観客に向かって大きな声が響き渡った。
 
「振舞い牛丼だ! さあ皆並べ! あるだけだ! 食べてくれ」
 
親仁の言葉に久美子が直ちに反応する。
「上田市の戸沢家です。牛丼を食べて下さい! うちの味を是非食べて帰って下さい。お代は入りません。ただあるだけです。さあ並んで!」
雑踏があっという間に一列に並んだ。親仁はひたすら牛丼の汁を切り続けた。
「上田の戸沢家です。年内は営業しています」
久美子も『年内の営業』という言葉に涙声になっていた。
泣きながら牛丼を配り続けた。
北風に、甘く奥深い香りが飛ばされて京都の街に溶け込んで行っく。何時しか、辺りは静かになり、這いつくばった二人はもう見えない。最後のランナーが交差点を左に曲がって行った。
「若者よ、順位なんて関係ねぇ! やると決めたんだろ。止まっている自分の時間を動かすと自分で決めたんだろ」
親仁は自分に問い掛ける様に呟いていた。やがて、用意した牛丼は全てなくなった。
「さあ! 上田に帰るぞ」
親仁が言った。
「最後まで応援しないんですか?」
「彼らならやるさ! きっと最後まで走り抜く。俺たちは帰って明日の仕込みだ」
親仁はもう見えなくなった二人のその先を見つめていた。
「はい!」
久美子は満面の笑みで応えていた。
 
 達也は痛みに必死に耐えていた。整備されたアスファルトに北風が運んで来た小石が素肌の膝と掌を容赦なく痛め付けて来た。血がにじみ出て、アスファルトに点々とその跡が付いている。それは太陽も同じだった。
「達也、膝から血が出てるぞ」
「痛い! でも右足の方がもっと痛い」
「そうだよな。痛いよな。こんなの想定外だったからな」進みだしてすぐに太陽は心に決めた事がひとつあった。もし、達也に限界が訪れて「諦める」と言った時は、自分が達也を抱きしめる事だ。それは、世間的には達也の意思とは関係なく、太陽の行為で失格になる事を意味する。
太陽の責任で失格にすれば、達也の気持ちは聊かでも楽になると考えたからだ。励まし合いながら一歩ずつ進む達也と太陽に再度審判が声を掛けた。
「棄権しても良いんですよ」
「……」
達也は無言で首を振った。その映像はテレビを通じで全国に放映されていた。
高体連のホームページは批判の声で溢れ、Xは炎上していた。
(どうしてやめさせないの?)(可哀そうー)(やるって言ってんだから、勝手にすれば)(最低のランナー)(ランナーじゃないでしょ。ワンちゃんでしょう?)
批判的な書き込みの中に(頑張れ! あと少し)と言った書き込みもあった。
 
 監督ルームに篠原が飛び込んで来た。
「宮島さん! 棄権して下さい。その方が彼らのためです」
黙ってテレビ中継を見ていた宮島は血相を変えた篠原をしっかりと見据えて聞いた。
「彼らは何と言っていますか?」
「やると言っています。だから棄権の権限は監督の貴方にしかないでしょ!」
「本人たちがやると言っている以上、棄権はしません」
宮島は冷静に言った。
「しかし、このままのペースで行ったら、繰り上げスタートはおろか交通規制解除の時間になってしまいますよ」
篠原はどうしても宮島に棄権宣告をさせたかった。
「交通規制が解除されたら、二人には左側を交通ルール厳守で走る様に指導しますから最後まで走らせてやって下さい」
宮島は深々と頭を下げる。
「走らせるって? 走ってないでしょ! 這つくばっているんですよ」
篠原は見下す様に言った。
「走っていますよ!」
宮島の声は大きくなった。
「何処をどう見たって這っているでしょ」
「あの子たちは、目的に向かって懸命に走っているんですよ! どうして分かってやれないのです? 貴方が何と言おうと棄権はしない!」
「私には負け犬の遠吠えにしか聞こえませんな」
篠原の心ない言葉に温厚な宮島が声を荒げて怒鳴った。
「彼らは犬じゃあない! 訂正しなさい」
宮島は感情を表に出さない性格だった。長女の朝香(あさか)が誕生した時、病院の廊下で大はしゃぎして看護師さんに抱きつきビンタされた時以来の事だ。
「犬でないのなら、貴方の郷里の文化である藁馬ですかな? ハハハ……」
皮肉を込めた馬鹿笑いに宮島は、握り締めた拳を振り上げようとしていた。その時だった。
「篠原会長! 貴方は間違っている。子どもたちに謝罪すべきだ!」
千葉県代表東部台千葉高校の丸山正(まるやまただし)監督が二人の間に割り込んだ。宮島は丸山のお陰で暴力を留まる事が出来た。
「丸山先生だって運営側がどれだけ苦労をして大会を行っている事はご存じでしょう」
篠原は丸山に反駁する。
「もちろんです。コースを選定するにも京都府警と喧々囂々、会場整理委員の確保、大変なご苦労だと承知しておりますよ」
「それが分かっているのなら、上田北高は棄権すべきではないですかね」
甲府農林の栗原勝男(くりはらかつお)監督が口を挟んで来た。
「苦労をして大会を運営するのは子どもたちのためと認識しておりますが」
丸山は栗原を見つめて言った。
「すると丸山先生も上田北高は棄権すべきでないと?」
転倒の原因となった接触が自校の選手である事を栗原は無視していた。
「棄権がベストの選択ではないと言いたいのです。宮島先生は本人たちがやめると言うまで走らせて欲しいと仰っています。生徒が一〇人いれば一〇の人生がそこに在るはずです。今、中継地点まで懸命に走っているあの選手たちの人生ですから、それを尊重すると言う事ですよね?」
丸山は宮島に目を向けた。
「その通りです。西之園はやっと自分の殻を破りここにいます。楠は必死に友達を助けようと這いつくばっています。あの子たちは藁馬に見えるかもしれません。でも、藁馬はやがて天馬になるのです。まして負け犬などと言う言い方はもっての外だ! 彼らは立派な人であり本校の誇りです」
「しかし、大会は優劣をつけるものです。順位が全てですよね」
栗原は言う。
「そのためならどんな方法を使っても良いと?」
丸山が栗原を睨み付けた。
「接触の事を仰っているのかな? あれは良くある事故でしょう。まして二度目の接触は、上田北高の選手が避けるべきだったのではないでしょうかね。視覚障がい者だからそれが出来ないと言われるのでしたら、大会の参加自体が本末転倒でしょう?」
栗原は宮島を見て言っていた。
「私は、転倒が御校の選手が原因だとは思っておりません。ただ、あの子たちが納得の行くまでやめさせたくないだけですよ。一人の生徒が目的に向かって這いつくばった。友達を助けるために恥も外聞もなく這いつくばった生徒がいる、この大会を通して、二人に強い絆が生まれ、仲間たちに友情の輪が広がればそれで良いと思っています。優勝と言う冠は山梨県でも千葉県にでも持って行けば良いと言う事です。大切なのは生徒たちの今後の人生に、この大会をどう役立てるかだと考えています」
宮島は、北高の教育理念を貫くべく話す。
「そのための部活動ですからね。冠は千葉県が頂きますよ。上田北高がこの様な災難に見舞われてしまった以上、マークするチームはもう在りませんからね」丸山は栗原に皮肉を込めた。
「生徒たちが社会に出た時、友情や絆が役に立ちますかね? 社会は組織で成り立っています。仲良ごっこは学生の時だけであり、社会に出たら誰が自分を追い落とそうとするかも分かりません。競い合う中でそれを教えてやるのも教育でしょう。現に大会運営も組織で成り立ち、その苦労を無視しようとしているのは、宮島先生! 貴方たちの学校でしょう」
現代社会の仕組みを意味する栗原の言葉は的を射ているのかもしれない。それでも宮島は動かない。
「……しかし、これからの新しい社会を築いて行くのもあの子たちです。自分が勝ち組なのかそうで無いかを判断するのもあの子たち自身ですよ。大体、人の生き方に勝ちも負けもないはずです。勝利者か否かを区別するのは順位ではないと私は思っています」
宮島は言い切った。議論が沈静化する頃、監督室に藤井アナの大声が響き渡った。
 
「アッー! またも接触転倒、東部台千葉転倒です。大丈夫でしょうか? ア、立ち上がりましたね。しかし、この転倒で甲府農林が一〇〇メートルリードです。瀬田さん、今回のレースは転倒が多いですね」
「やはり、健常者と障がい者が同じレースを走る事に問題があるのでしょうね」
「……それは関係ないと思いますよ」
藤井アナの声は大きくなっていた。
 
「冠は山梨県に持って帰らせて頂きますよ」
栗原は笑った。
「さあどうでしょうかね? レースはまだ終わっていませんから」
丸山も笑っていた。
 教師三人の教育論争に水を差すかの様に篠原が冷たく言う。
「とにかく交通規制が解除されても這っていたのなら、彼らの安全保障は致しかねますよ」
「その時は私たちが守ります。必死になって前に進もうとしている子どもたちの未来を守るのが、私たち大人の義務だと思っていますからね」
宮島は篠原を睨んだ。
「またお得意の上田北高等学校教育方針ですか? どうぞご自由になさい」
篠原は勝ち誇った様にあざ笑って監督室を出て行った。
「繰り上げスタート、交通規制など糞くらえ! 彼らの一歩の方が大切なルールなのですよ」
宮島は心で呟いていた。
「宮島先生! もし安全管理のスタッフが必要でしたら、本校から生徒を応援に出しますよ」
三人の教育議論を聞いていた徳島城山高校の監督が提案した。他に四校の監督が手を挙げていた。
「うちも応援しますよ」
無論、丸山も賛同した。宮島は、目頭を熱くして深々と頭を下げた。
「宮島先生、子どもたちの絆輪を学校の垣根を越えて、各地域に広げて行きませんか? 私たちもそれが真の教育だと思っていますから」
支援を申し出た学校の監督たちが言った言葉である。
                              つづく


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