【小説】KIZURAWA㉙ 号砲・1区
全国放送のテレビ中継がオーロラビジョンに映し出され、進行役のアナウンサー藤田(ふじた)の声が大型のスピーカーからスタジアムに響き渡った。藤田アナは、夕方のニュースで原稿に頼らずに、自分の言葉で語るメッセンジャーとして有名であり、その事がSNSで話題にもなっている。
「朝方に比べますと柔らかい風が感じられる様になりました京都市内です。午前に行われました女子のレースでは、千葉県代表の東部台千葉高等学校が初優勝をいたしました。この後、男子のレースが始まります。スタートまで五分を切りました。スタートフィニッシュ地点は女子と同じここ、松菱スタジアム京都です。昨晩の雨で濡れていた競技場のトラックも今はすっかり乾きました。男子の解説はマラソン界のレジェンド日本陸上連盟理事の瀬田利久(せたとしひさ)さんです。実況担当は藤田でお伝えしてまいります」
「瀬田さんよろしくお願いします」
「此方こそよろしく」
「そして、第一中継車からは、オリンピック女子マラソンの金メダリスト高梨尚美(たかなしなおみ)さんに、レースの状況を生の声で伝えて頂きます。どうぞよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
高梨の声がスタジアムに響いた瞬間、スタジアムから拍手が起こっていた。
「さて、男子四七チームの顔ぶれから紹介していきましょう」
画面には学校名と代表県が映し出され、一区の選手たちの様子が紹介されていた。
「今年は出場四七チームの内、六チームが初出場となりました」
上田北高校もこの初出場の六校の中にいる。
「さあ、男子のコースは七区間四二.一九五キロで争われます。そのコースを紹介して置きましょう」
画面ではコンピューターグラフィックで戦いのコースが紹介された。
「さあ男子の有力チームを見て行きましょう。今年は三強と言われておりますが、まず長野県代表の上田北高等学校、予選では殆どの区間で区間賞を取りました。女子優勝の千葉県代表東部台千葉高等学校は初出場で男女アベック優勝を狙います。そして留学生に絶対の自信を持つ山梨県代表の甲府農林高校が注目されますね。瀬田さんはどうお考えでしょう」
「そうですね、予選タイムでは上田北高等学校がダントツのタイムですが、ご承知の様に同校は予選会直後に不幸にもキャプテンを喪っております。代わりにエントリーしたのは、視覚に障がいを持つ選手です。しかも、陸上の経験は皆無に近い。この日までの短期間で全国レベルに持って来る事は相当な無理があると思いますね。実質二強と言っても良いのではないでしょうか」
「六区ですね。伴走者も陸上経験者でなくサッカー部員と聞いています」
「まあ陸上を甘く見ているとしか思えませんね。千葉と山梨が競い合いながらレースを引っ張り、山梨は三区の留学生コースで勝負を賭けて来ると思います」
「ケニアからの留学生ダニエル・ケイン選手ですね」
「彼は超高校級ですから一気にトップを狙って来ると思います」
「いよいよスタートまで二分を切りました。レース全体の興味もありますがまずはこの一区、最初の区間に有力選手が並んでいます。五〇〇〇メートル一三分代の記録を持った選手が今年は一六人揃いました」
「一三分代が当たり前になっている状況で大混戦が予想されますね」
「今年もインとアウトに分かれてスタートを切りますが、今映っている上田北高等学校の諏訪豊選手だけが注目校ではインスタートです」
豊がオーロラビジョンに映し出されていた。
河山駅前で花屋を営む七海茂(ななうみしげる)はテレビに向かって罵声を飛ばした。
「何言っていやがるだ! このへぼ解説者が!」
「まあまあ、解説は好き勝手な事を言いますから」
興奮する七海を宥めたのは、学校に残った校長だった。京都まで応援に行けないという地域の人たちのために学校の多目的ホールを開放し、臨時のパブリックビューイングを設置したのだった。スタート時間を前に続々と人が集まって来て、いつの間にか用意したパイプ椅子は満席になり、立ち見の人も出ていた。
「皆さん! お忙しいにもかかわらずお越し頂き、ありがとうございます。皆さんには当校の一部の生徒がご迷惑をお掛けしているにも関わらずに応援して頂き心から感謝いたします」
校長は頭を下げた。
「ネットでは色々と書き込みをされていましたが、あの子たちが毎日走っている姿を私たちは見ていましたからね」
「ご期待に沿えるかわかりませんが、精一杯頑張る子たちだと、私たちは信じています」
再度頭を下げる校長に向かって七海が言った。
「校長! 学校だって地域の一翼ですぞ」
集まった人たちは頷いていた。
豊は冬萌の空を見上げて『あの日に似ている』と思っていた。わずか三ケ月前の事なのに何故か遠い昔の出来事の様に感じていた。彼は、その目を足元に向けた。真っすぐに引かれたスタートライン。高鳴る鼓動を抑える様にゼッケンのピンを外してみた。
(豊、全ては君から始まるんだね。胸の襷をゴールまで繋ぐためには君の第一歩が大切だと私は思っています。皆の夢への第一歩頼んだよ! その一歩は皆の一歩、力強く確実に諏訪豊らしくね)
見慣れた茉梨子の字が綴られていた。豊の目つきが変わり、さっきまで緊張で爆発しそうに動いていた心臓がぴたりと正常に戻った。自分のゴールを見つめ、更にその先にも集中している彼がそこにいた。幸いにもインスタート、アウトスタートより二〇〇メートルのラップが計りやすい。豊は軽く飛び跳ねると「力強く、確実に、俺らしく」と心の中で何度も叫んだ。周りの選手などこの時の豊の目には見えていない、彼は仲間の笑顔が待つ、一〇キロ先の中継地点だけを見つめ、大切な第一歩に集中していた。会場のアナウンスが全国高等学校駅伝競走大会の開幕を告げ、澄み切った大空に花火が打ち上げられた。ドッドドドーンと地に響く音がスタジアムに轟き、観客席からは祝福の拍手が鳴り響いていた。
スターターの京都府知事が定位置に着いた。「位置に付いて、ヨーイ」アナウンスと同時に選手たちは腰を屈め自身の腕時計に手をやった。
号砲は静まり返ったスタジアムに響きわたった。
「男子のレースが始まりました。ふたてに分かれて、まずインスタートの集団が第一コーナーに差し掛かっていきます。この後、第二コーナーでインとアウトが合流します。アーッ! もう出ていますね。上田北高の諏訪選手が一人跳び出しましたね。しかし誰も付いて行きません」
豊は号砲と同時にその一歩を踏み出した。トップグループの中に位置を取った豊かだったが、そのスピードには納得がいかなかった。「行く!」そう決めた豊は
「力強く、確実に、俺らしく、俺のペースで」
そう呟くとギアを一気にトップへ入れた。第二コーナーの合流前に豊は単独トップに立った。
「高校生の夢舞台、思いの込もったそれぞれの襷を繋ぐ、全国高等学校駅伝競走大会、いよいよ号砲が放たれました。トップに躍り出たのは上田北高等学校の諏訪選手、一気に一〇〇メートルのリードです。瀬田さん! やはり上田北高ですね?」
「まあ一区は一〇キロ区間ですから、このままもつてば良いのですが、私の経験では無理でしょうね」
そんな言葉を後に、豊は京都の街へ走り出た。一般道に出ても豊のスピードは落ちる事はなかった。沿道には見慣れたベンチコートを着た友達が二〇〇メートル置きに立ってくれている。豊は友達一人一人の顔を見ながら感謝の気持ちを込めてラップを刻む。学校の練習より若干早い記録を刻む時計に豊は満足をしていた。「坊主頭にして空気抵抗を減らしたからかな?」と自分で自分を誉める心の余裕も生まれていた。
「ここでランナーを先導する白バイ隊をご紹介しましょう。先導は京都府警交通機動隊々長、本間勇巡査部長と同機動隊、渡辺浩二巡査です。本大会は京都府警本部、同医師会、消防本部の協力で運営されております」
スタジアムのオーロラビジョンには白バイを巧みに操る二人の白バイ隊員が映し出されていた。
「瀬田さん上田北高の諏訪選手はロードに入ってもペースは落ちませんね」
「後どのくらい持ちますか? が見ものですね。一区は一〇キロですからオーバーペースにならなければ良いのですがねー」
瀬田の辛口評価に、たまらず藤田アナは、第一中継車の高梨に話を飛ばした。
「さあ! 高梨さん、上田北高は予想通り出てきましたね。瀬田さんの評価ですとかなりオーバーペースとの評価ですが?」
「そうですかね? 先ほどから諏訪選手は二〇〇メートルおきに時計を見ています。自分のペースを確認しているのですが、私だってペース確認は一キロおきです。かなり慎重にペースを考えた練習を行って来た様に私は思いますが」
「二〇〇メートルおきにラップを計るにはコースを熟視していないと無理だと思いますが、彼らにそんな時間はなかったと思いますがねー」
瀬田は鼻で笑っていた。
「沿道に同じベンチコートを着た生徒が立っているようです。諏訪選手はこれを目印にラップを計っているようですね」
高梨の言葉にテレビカメラが沿道を映し出した。
「なるほど! スカイブルーのベンチコートですね。胸にはサッカー部と記されていますね」
藤田アナは状況を的確に伝えた。
「サッカー部だけでなく陸上部も協力しているようですよ」
高梨が捕捉した。
「このままのペースを保つには可成無理がありますなー」
瀬田は完全否定の姿勢を崩さなかった。
「他校の選手が全く付いて来ないのも気になります」
藤田アナは後続がスローペースなのが気になり瀬田に問い掛けた。
「上田北高は六区に障がい者が走りますので、そこで追いつく計算なのでしょう。時間のない中の無謀なエントリーですから、弱点を突いて六区で逆転する作戦なのでしょうね」
そんな瀬田に反駁したのは高梨だった。
「挑戦する権利は、誰にでも公平にあるはずです。ウイークポイントに合わせたランを私ならしません。正々堂々と一区から勝負して欲しいです」
金メダリストの正直なコメントであった。
豊は後続が付いて来ないのが不思議だった。一キロを通過して二分四〇秒。ペースは良い感じだった。五キロを過ぎる頃には後続に五〇〇メートルの差が出来ていた。それでも「まだだ!」豊はそう思っていた。二区に渡す時には一キロの差をつけてやる。そう考えていたのだ。詳細にペースをチェックした。練習の時より少し速いペース、これは何時もの事、本戦になると誰でもテンションが上がりペースも上がるものだ。
「長野の上田北高が単独トップ、一分ほど遅れて第二集団には東部台千葉と甲府農林高校がいます。上田北高に付いて行こうとしてか、ここで岩手県代表の市立遠野高校がセンターライン寄りから抜け出しました。トップは長野、続いて岩手そして混戦の第三集団と言うレース展開です」藤田アナの実況はやや興奮気味であった。
「岩手の武田君は付いて行かない方が賢明だと思いますがね」
瀬田は冷静に解説していた。どうせ豊のスピードは長続きしないと考えていたからである。
八キロを越えて、市立遠野が第二集団に吸収され、更に遅れ始まった。第二集団のランナーは豊かに付いて来なかった。それならばと豊は更にペースを上げた。
「放送席! 中継車、高梨です」
「高梨さんどうぞ」
「先ほど第二集団で接触転倒がありました。千葉と兵庫の選手が前方の山梨と接触し転倒しました。現在は集団に戻りましたが、集団が横長になっています」
「接触転倒、大丈夫でしょうか?」
「混戦の中では良くある事です」
瀬田は軽く言った。
「先頭の上田北高、諏訪選手の表情はどうですか?」
「諏訪選手は、八キロを過ぎて若干苦しそうな表情をするも、スピードは落ちません。いえ、更に上がっています。何かに取り憑かれたかの様に歯を食いしばり、ぐんぐんスピードを上げています」
つづく