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【小説】KIZUNAWA㉖        桜井さんの大会前夜

 桜井は、逞しく成長して行く達也を見つめていた。仲間を信じて胸を張る達也と包み込む仲間たち、そして三人の指導者に達也は守られている事を確信した桜井はレセプションルームを後にした。そんな桜井に声を掛けて来たのはホテルの女将、日葵(ひまり)であった。
「桜井さんお疲れではありませんか?」
「ありがとう存じます。女将さんは?」
桜井がそう答える。サービスのプロ同士の挨拶は分かりにくい。『今日の仕事は終わりましたのでお先に上がります。そうですか、お疲れ様でした。私も上がります』会話の内容は大体こんな感じである。
「時間が在りましたら少しいかがです?」
日葵は人差し指で、天井を指差しながら言った。
「私とですか?」
「ええ、執事のお仕事のお話を伺いしたくてお誘いしてしまいました。いけるお口でしょ?」
日葵はお酒を飲むジェスチャーをした。
「たしなむ程度ですが」
桜井は恐縮していた。
 
 日葵と桜井は最上階のバーカウンターに並んで座っていた。薄暗い照明にキャンドルが揺れている。
「何になさいます?」
「ハッ! ではバーボンのロックをダブルでお願いします」
たしなむ程度の飲み方ではない。
「私は何時ものを……」
日葵はバーテンダーに告げた。やがて丸い氷で冷やされたバーボンと、カクテルグラスにオレンジが盛られた黄色い飲物が差し出された。
「此方バーボンロックでございます。そして『ひまわりの雫』でございます」
「ひまわりの雫?」
「ホテルオリジナルのカクテルですの」
「オリジナルですか」
「私の名前が日葵ですので、彼が考えてくれましたの」
日葵がバーテンダーに視線を向けると、カウンター内の紳士が軽く会釈をした。二人はそれぞれのグラスを軽く挙げると口に運んだ。男女の仲は不思議だ。一目会った時から言葉はなくとも互いに引き合うものが在る。古い世代は運命の赤い糸と呼んでいたが現代では死語であり、運命よりもマッチングアプリなのだろう。
「明日はあそこで皆さんが戦いに挑むのですね」
日葵は窓の外を指差して言った。そこには、雨に濡れる松菱スタジアムが見えていた。
「雨が止むと良いのですね」
夕方から降り出した雨を心配する日葵に対し桜井は感謝の意を込めて言う。
「坊ちゃんがここまで来られたのは、全て女将さんのお陰です」
「日葵で結構よ! その方が嬉しい」
「エッ? いや、ひひ日葵さんが、途方に暮れていた北高を救って下さいました。スタジアムから三〇分以内の宿が予約出来なければ出場辞退でした。日葵さんは坊ちゃんたちの恩人です」
「恩人だなんて大げさな。私は倉田さんから事情を聴いて困っている人がいたら助けると言うホテルマンの精神を実行しただけですわ」
「しかし、誰にでも出来ると言う事ではありません。相当な損出でしょう?」
「お金ではないでしょう? 貴方だって西之園さんのためなら命すら惜しまない、そんなお顔をなさっていますよ」
「私は執事ですからお仕えするお方のためならどうにも致します」
「執事のお仕事は何時からなさっているの?」
「もう三〇年に成りますか」
「大変なお仕事なのでしょうね」
「日葵さんほどではありませんよ」
「そんな事はないでしょう」
「私は、お仕えする方お一人のために尽くすだけです。それに比べると日葵さんは、一日に何百人ものお客様を接待なさっています。感服いたします」
「私にはそれだけのスタッフがおりますから」
日葵はバーテンダーに目を向けた。
「それでも大変なお仕事ですよ。誰にでも出来ると言う訳ではありません」
「ありがとう存じます。ところで西之園家には何時までのご契約ですの?」
「そうですね。一年ごとの更新ですのでまだ決まってはおりません。ただ、坊ちゃんが高校を卒業なさるまでは、お仕え差せて頂こうと思っております。首にならなければという条件が付きますがね。ハハハハ」
桜井は正直に答えていた。
「首になってしまったら京都に来ませんか?」
「えっ?」
「……」
「いえ、遊びにと言う意味です。私がご案内いたしますわ」
日葵が慌てて本音を誤魔化した時、店に見慣れた顔が入って来た。上田市陸連の人達であった。桜井は直ちに立ち上がり、深々と頭を下げた。
「やあ桜井さん、デートですか? 隅に置けませんなあ」
仲長が茶化す様に言うと桜井は真っ赤になって更に深々と頭を垂れた。
「子どもたちは部屋に戻りましたよ。私たちは明日の打ち合わせを少し」
そう言うと藤咲がテーブルに広げたコースの地図を指差し打ち合わせをしている仲間に合流して行った。テーブルでは数人の大人が真剣な顔で話を始めたところであった。
「七区は上田市陸連の方々が面倒を見て下さいます」
桜井が日葵に告げると日葵はバーテンダーを呼びつけて、最初の一杯はホテルからと伝えていた。
「日葵さん申し訳ありません。それは私が……」
桜井は内ポケットに手を入れて財布を出そうとしたが、日葵は手で制止した。
「冗談抜きで今度はお仕事でなくいらして下さいね」
「必ず」
「約束ですよ」
 
二人は二度目の乾杯をした。
                              つづく

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