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【小説】KIZUNAWA㊴ 繰り上げスタート・待つのも勇気
達也と太陽が最後の坂を上り始めようとした時、最終ランナーが二人を追い越して行った。岩手県代表の市立遠野高校の選手だ。追い越す寸前に彼は「負けるな!」と声を掛けてくれた。
「今の人、最後のランナー? ビリになったの?」
達也が聞いた。
「岩手の選手だ! 優しくて良い奴だな」
太陽は、順位を気にする達也を誤魔化した。
「ここから上り坂だ、ゆっくり休みながらで良い、上り切れば中継地点は視界に入る。達也には城址公園の駅だけどね」
太陽は必死に達也を励まし続ける。今の彼にはそれしか出来なかったからだ。
第六中継地点をほぼ同時に襷リレーしたのは山梨と千葉の両校であった。四〇秒遅れで三位集団が次々とリレーした直後、先頭の二校に接触があり千葉が遅れだし、後続の集団に吸収されたと茉梨子の手の中で小さな画面が伝えていた。
「また接触? 今年は多いな」
そんな事を思っている茉梨子の前を次々とランナーが通過し襷リレーを行って行った。(達ちゃんたちは?)茉梨子はグループM・ラインを送信すると(這いつくばってる)(可哀そうに痛々しいよ)次々と返信が届いて来た。
「達ちゃん、太陽」
茉梨子は呟きながら時計を見ていた。甲府農林高校と東部台千葉高校が中継して一五分を越えようとしている。
「岩手県代表市立遠野高校、長野県代表上田北高等学校、繰り上げスタートの準備をして下さい」
大会役員が二人に繰り上げスタート用の白い襷を雅人たちにわす。
スタートラインに着いた二人の目に一人の選手の姿が飛び込んで来た。市立遠野の選手が最後の坂を上り切って一気に下りに入って来たのだった。市立遠野のアンカーは飛び跳ね手を振った。
「頑張れ!」
沿道から声援が送られる。
「繰り上げスタート一〇秒前……五・四・三・二・一、バーン」
号砲が放たれた。市立遠野の選手は残り一〇数メートル手前でその号砲を聞いた。間に合わなかった。
号砲と同時に二人はスタートを切った。しかし、雅人は数歩前に出ただけで歩を止めた。その横を市立遠野の六区を走った選手が飛び込んで来る。息が切れ絶え絶えの中、彼は「坂、登っている」と雅人に告げると仲間に抱えられて雑踏に消えて行った。雅人は「ありがとう」と心で叫んでいだ。そして茉梨子を見た。茉梨子と目が合う雅人。
「良いよな?」
「キャプテンが決めたのなら」
心の会話に茉梨子は軽く頷いた。
慌てて審判が駆け寄って来る。
「君! 記録は刻まれていますよ。走る気はないのかね?」
その問いに。
「走っています」
雅人は、数センチずつ前に進んでいたのだ。
茉梨子はスマホのグループM・ラインを見た。仲間たちからの情報が茉梨子に集まって来ていたのだ。
「キャプテン! もうすぐ来る! 坂を上り切る!」
茉梨子が叫んだ。この言葉を聞くと雅人は
「達ちゃん! 待ってるから!」
雅人は進路に背を向けると両腕を天にかざし大きく飛び跳ねながらまだ見えない仲間にそう叫んだ。その声が達也に届いているか否かを雅人は知らない。だが、たまらなく叫びたかった。待っているよと伝えたかった。大切な仲間の心に届けと願いながら雅人は叫び続けていた。
「君の記録は前代未聞の記録になるよ! それでも良いのか? もうすぐ交通規制も解除される。そうしたら記録は更に遅くなるぞ!」
審判が走る様にと促す。
「分かっています。僕の記録なんてどうでも良いのです。大切なのは仲間の気持ちです」
雅人の決意は変わらない。審判は、説得を諦めざる得なかった。
「交通規制が解除されたら、左側を交通ルールに従って走って下さい。これ以上は何も言えません。良いですね?」
雅人は静かに頷いた。
チームワーク、それは仲間の犠牲的精神から成り立つもの。雅人は、超高校級と言われる自らの記録を捨てた。
その頃、達也たちは必死に坂を上っていた。乾いたピストルの音が達也の耳に響いて来たのは坂の中ほどに差し掛かるか否かと言う時だった。太陽は約束の場所まで襷を届けようと言うが、達也にしか聞こえなかった音が、達也のテンションを下げて行った。
「今のピストルの音、繰り上げスタートだよね?」
達也が聞いた。
「俺には何も聞こえなかったよ。だから気にするな、達也は前を見て中継地点まで走り抜けば良いんだ」
「中継地点にはもう誰もいないよ」
「そんな事はない。茉梨子が必ず俺たちを待ってる」
「……」
「悔しいよな」
「……」
「あんなに頑張っていたのにな」
「……」
太陽の問いに達也の沈黙は続く。やるせない結果に達也のテンションは下がっていた。
「この悔しさを俺は忘れない、バネにして来年、サッカーで奇跡を起してやる」
太陽の力強い言葉に達也も反応した。
「上田陸連の人たちも、奇跡は起きるのでなく、起こすのだと言っていたね」
「そうだよ、だから達也も今日の悔しさを忘れないで、来年は日本一の月桂樹をかぶらないとな」
「うん、必ずかぶってやる!」
自分だけのボックスシートでうずくまっていた少年の姿は完全に消えた。
「そうだ、その意気、その意気、もうすぐ坂を上り終わる、約束の場所まで一気に走るぞ」
「うん行こう! もう少しだものね、中継地まで行ったら、広江さんに告白したら?」
「何を?」
「好きなんでしょ!」
達也はストレートに言った。
「こんな時に、何を言ってんだ!」
「広江さんも太陽に好意を持ってると思うよ。僕の耳が一昨日しっかりと聞いたから」
「達也! アスリートならランに集中しろ」
太陽が話を逸らした時だ。
「あ!」
「どうした、足痛いのか?」
「今、柞山君の声が聞こえた」
達也が突然言い出した。
「雅人はもうスタートしている。空耳だよ」
「でも、聞こえた! 待っているって!」
達也のスピードが上がった。
「もうすぐ坂を上り終わる。残りは下りだ! 少し楽になる」
太陽の言葉に達也のスピードは更に上がって行った。心に伝わった喜びは、膝と掌の痛みも右足の激痛も忘れさせたかの様に見えた。
「頑張れ!」
「負けるな!」
沿道から応援の言葉が溢れ出て来た。達也はその一言一区に頷き、必死に進み続けた。やがて、第六中継地点からもその姿が見える様になって来た。それは、蜃気楼の様に揺れ動き、ゆっくりと浮かび上がって来る。達也たちの背後の日差しが二人をシルエットで表現し、まるで天に昇る藁馬の如く映し出したのである。這いつくばっても必死に近づいて来る二人の姿を確認した雅人は更に大声で叫び、両腕を広げて飛び跳ねた。
雅人の胸には白い襷が揺れている。
達也と太陽が陸橋の頂上に達した時、太陽の目に、何かを叫びながら飛び跳ねている雅人の姿が飛び込んで来た。
「よーし! 達也頂上だ!」
太陽がそう叫んだ。
その時、『プツン』という音と共に達也の左手首からミサンガが切れ落ちた。その音は達也には聞こえない太陽の視覚がとらえた音だった。
「達也! ミサンガが切れた」
太陽は嬉しそうに言った。達也の左手首から落ちたミサンガは、風に舞い躍動的に道路で踊ってる。
「え?」
その音は、達也には全く感じられなかった。達也の聴能力は、雅人の声に集中していたからだ。
「あいつ、自分の記録を捨ても俺達を待っていてくれたんだ」
太陽が呟く。
「柞山君が待っていてくれているんだね。僕の願いが叶うんだね」
「そうだよ、達也にも雅人の姿が見えるか?」
「見える。僕の名を呼び、待っているからと叫びながら飛び跳ねている」
「もう直ぐだよ、行こう!」
太陽は、涙が止まらなくなっていた。
自分の記録を捨て、仲間を待ち続ける雅人に本物のリーダーを感じたからだ。「雅人、何時か君が言っていた絆とはこの事なんだね。自分を犠牲にしても仲間の為に尽くす事なんだね?」
太陽は心で雅人に問い掛ける。その問いに答えたのは何故か達也だ。
「うん」
この返事は、先の太陽の「もう直ぐだ、行こう」の言葉に達也が答えただけなのだが、太陽の心の問いに対する答えになっていたのである。偶然の出来事、しかし、同じ目標に向かって思いやりながら進む仲間たちには良くある出来事なのかもしれない。
「達也、ゴメンよ」
突然太陽が謝った。
「どうして謝るの?」
「俺の判断がもう少し早く出来ていれば怪我をさせずに済んだと思うからさ」
「太陽のせいではないよ」
「でも」
「僕は、太陽に感謝しているよ。あの日、駅伝部室まで連れて行ってくれた。あの日がなかったら僕はここにいないし、合宿してくれて、一緒に僕の歩みを助けてくれた。優しさに包まれながらも一人ぼっちだった僕を、そこから引きずり出してくれて、今は心から親友だと思っているよ。だから、もう謝らないでよ」
「ゴメン」
「また謝った」
この時の会話は、達也が這いつくばった時に交わされた二人の会話とは主人公が逆転していた。
「そうだな。親友か、俺にそんな資格あるのかな?」
「大切な親友だよ、だから、もう泣かないで」
「泣いてねーよ」
「広江さんに幻滅されるよ」
「茉梨子はそんな女子(こ)じゃあねーよ」
「そうだね。広江さんは優しくて思いやりがあって女神みたいな女子(ひと)だものね」
「時々魔女が降臨するけどな」
二人はこんな話をしながら必死に坂を下った。
足の痛みも膝も掌の痛みも完全に忘れ去られていた。
中継地点に集まった観客から「来た!」と声がした。
「達ちゃん! 頑張れ! 待ってるから」
雅人の涙声が達也たちに届いているのか? 雅人には分からない。ただ待つ事しか出来ない自分が歯がゆくて仕方がなかった。しかし、待てば待つほど力が湧いて来た。二人の姿が少しずつ大きくなって来る。何かを話しながら必死にここへ向かって来る。痛々しい姿だが雅人には楽しそうな二人に見えていた。
第六中継地のゴールラインが間近に迫った。雅人の声もはっきりと聞こえて茉梨子の目に涙が光っているのが太陽には見えていた。
「もう直ぐだ!」
そう思い興奮した太陽は、達也より前に出て進んでいた。五〇センチの余裕がそうさせていたのだ。
茉梨子は祈っていた。神様でも仏様でも誰でも良いから二人を守って下さい。ここまで連れて来て下さい。茉梨子の祈りが通じたのか、二人はしっかり中継ラインを見つめて走って来ていた。「太陽が興奮している」長年の付き合いが茉梨子にそれを気付かせた。いけない、このままではドロップキックをお見舞いする事になる。とっさに茉梨子は叫んでいた。
「太陽、少し下がって!」
茉梨子の涙声に、太陽はハッとし我に返り、慌ててテザーを離すと達也から一歩下がって追尾した。伴走者が選手より先に中継ラインを越えると失格になってしまうのである。
「達也、あと五メートル、襷を外して」
達也は頷くと、一旦止まって襷を外して口にくわえた。そして一歩また一歩と前に進んでだ。
達也の体がリレーラインを越えた。
「越えた! 越えたぞ!」
太陽が叫んだ。達也は口にくわえた襷を両手に移すとそのまま倒れ込んだ。達也が両手で広げた襷を、雅人がしっかりと握り締める。
「ごめん! ビリになっちゃった……」
謝る達也に、雅人は涙を拭うと
「達ちゃん! ありがとう!」
一言叫ぶ。
受け継がれた友情の絆輪は、雅人の右手に巻き付けられた。
つづく