23歳かく語りき①
夢や希望を追い求めていていると、世界は狭まっていった。
お笑い芸人から始まり、私の持つ夢は転々と変わり続けている。ミュージシャンだった時もあったし、何でもかんでも優秀な人という漠然としたものだった時もある。一見すれば小学生のような発想なのだが、私はその夢たちを捨てきれていなかった。お恥ずかしながら。
しかし、そんな脳内ハッピーセットの私も23歳になり、自分という現実が見えてきた。
新型コロナの流行から一年と少し、歌も歌わず、文章も頼まれたら描く程度、生産性のカケラもないような日々を過ごしてきた。昨年の4月から大学院に通い出して、慣れるのに時間がかかったから、研究が忙しかったからなんて言い訳は湯水のように出る。
それを加味しても、結局は描かなかったのだ。
その事実が、私を打ちのめした。もう何も描けないんじゃないかと気づいた時、私が描いていた夢の一つが潰えたような気がして、とても怖かった。
だからこそ、私は目の前のやれることに没頭し始めた。研究に没頭し、描けなくなった自分を掻き消そうとした。
しかし、それもそう長くは続かなかった。2月になり、自分のやっていた作業で思うような結果が出なかったことがあった。それからはさらに、悶々とする日々。
ああすればよかったのか、これをしなかったからダメだったのか。そんな考えに囚われていて、何をするにも腰が重くなっていた。
ネガティブな考えに陥った時、私はいつも人生について考える。
このまま何もかもうまくいかないまま、ずるずると生きていくのだろうか。やるせなさで唇を噛み締め続けて生きていくのだろうか。私は何者にもなれないままなのだろうか。こんな自分がミュージシャンなんてなれるわけないし、優秀だなんて口が裂けても言えない。
考え出したら止まらない。悔しい。惨めだ。
ただダメになりたくなくて必死だった。歌も文章も作業もうまくできない自分が嫌いで嫌いで仕方がなかった。それなのに、動き出せない。デットロック状態だ。絶望だ。
そんなカッコ悪い自分なんか消してしまいたいと髪を掻きむしった時、ふと思う。世界が窮屈で仕方がない。
あれ?こんなに世界って狭かったっけ?と我ながら自分の考え方に疑問を持った。小さな頃はもっと世界が広かったよな。夢を持って、希望も持ってキラキラしていたよな。いやいやそれは現実を知らなかっただけだし。でも歌っていた時、文章を描いた時、何かに没頭した時、小さな頃に負けないくらいキラキラしてたし、歌に、文章に、作品に感動してた時は、世界の広さを感じていたよな。いやでも。でもでもでも。
そこまで考えて、気づいたことがある。小さな頃の私は、ただ生きていたのだ。目の前のことで悩みながらも、たくさんのことを幸せに感じながら、やりたいことをやって、見たいものを見て、感動しながら。
何が幸せかなんて考えることもなく、幸せを確かに感じていたのだ。なりたいモノに想いを馳せて、希望を持って生きていた。
今はどうだろう。自分のダメなところを自分に突きつけて、お前は何者になるんだと問い続けている。
自分が思う「ダメ」になりたくなくて、必死になっている。まだまだ続いているであろう人生の行く末に焦り、自分を消してしまいたいと嘆く。
少なくともこの考え方では、夢を叶えた後でも同じように悩むよなあと我ながら呆れた。
ダメな自分では、幸せになれないのか?
疑問を浮かべた時、色々な歌や文章が頭をよぎった。そして、それらが一つの答えとなって、頭の中のモヤを晴らした。
そんなことがあってたまるか。
もともと自分はダメだったではないか。小さい時から要領は悪かったし、歌も毒舌の母から「うーん、40点」と評価されていたじゃないか。その言葉にちょっぴり傷ついたりもしてたし、練習して「まあ50点かなあ」と言われた時は喜んでいたじゃないか。
あの頃は幸せだったとハッキリ言えるじゃないか。
だから、ダメな自分でもいい。それでも動き出して、歩いていけばいいのだ。そうすれば、ダメな自分が見ていた景色は変わる。それが良い方でも、悪い方でも変わらない。
ミュージシャンもエリートも関係ない。きっとどの道でも悩み、迷走しては人生を考えるのだろう。だからといって、幸せになれないわけではない。
ダメにならないためではなく、幸せを感じるために生きるのだ。どんな失敗があったとしても、幸せのためなら、動き出せる。この先幸せを感じる瞬間に出会えるのなら、生きていけば良いだけだ。
そう思えた今日、私はこの文章を描いている。自己満足甚だしいが、書いていて楽しいし、書けていることが嬉しい。
夢を持っていると、自分の世界が狭く見える。しかし、ダメな自分を排他するほど、小さくはないようである。
それならば、ハッピーな夢くらいポケットに入れておいてもいいだろう。新しい曲を練りながら、今日の私はそう思う。
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