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幸田露伴の「五重塔」の文末からの漱石「こころ」

五重塔

幸田露伴
其一
 木理(もくめ)美(うる)はしき槻胴(けやきどう)、縁にはわざと赤樫を用ひたる岩畳(がんでふ)作りの長火鉢に対ひて話し敵(がたき)もなく唯一人、少しは淋しさうに坐り居る三十前後の女、男のやうに立派な眉を何日(いつ)掃ひしか剃つたる痕の青あお※と、見る眼も覚むべき雨後の山の色をとゞめて翠(みどり)のにほ※ひ一トしほ床しく、鼻筋つんと通り眼尻キリヽと上り、洗ひ髪をぐる/\と酷(むご)く丸(まろ)めて引裂紙をあしらひに一本簪(いつぽんざし)でぐいと留めを刺した色気無の様はつくれど、憎いほど烏黒(まつくろ)にて艶ある髪の毛の一ト綜(ふさ)二綜後れ乱れて、浅黒いながら渋気の抜けたる顔にかゝれる趣きは、年増嫌ひでも褒めずには置かれまじき風体(ふうてい)、我がものならば着せてやりたい好みのあるにと好色漢しれものが随分頼まれもせぬ詮議を蔭では為べきに、さりとは外見みえを捨てゝ堅義を自慢にした身の装(つく)り方、柄の選択(えらみ)こそ野暮ならね高が二子(ふたこ)の綿入れに繻子襟かけたを着て何所に紅くさいところもなく、引つ掛けたねんねこばかりは往時(むかし)何なりしやら疎(あら)い縞の糸織なれど、此とて幾度か水を潜つて来た奴なるべし。
(引用:青空文庫、図書カード:No.43289、底本: 日本現代文學全集 6 幸田露伴集 講談社。※印の箇所は引用者の注)

なんと、なんと、これが一文。
初出の「五重塔」は1892年なので、「好色一代男」の1682年からおおよそ2世紀の隔たりがある。今日とは130年の隔たりだが、「好色一代男」のほうが「五重塔」の文章に近い。
露伴は古典に精通していたし、幼少から貸本屋で徳川時代の版本をたくさん読んでいたから、200年前の文章を書くのはお手の物だったと思うし、わざと江戸時代風に書いているのもわかるけど、それでも、「〜ました」や「でした」「であった」なんていう文末表現に悩んでいない、書きやすさが伝わってくる。
文章なんて切らなくていいのだ。

そして切るときは、「べし」とか「かりき」とか「なるらん」とか、飛車角級の使い勝手のよい言葉、助動詞で、読み手にふっと小休止を示せばよい。
これが本朝の(三人称の)書き言葉なのだった。
(※本朝の散文にとって三人称とは何なのかを考える必要がある)

あるいは、もうひとつ、近代以前の代表的な書き言葉は「候文」である。
「御座候」「六ツ敷事と存奉候」「被仰付候」
「ござそうろう」「むつかしきこととぞんじたてまつりそうろう」「おおせつけられそうろう」

候文とは、まさに文末の言い方がその特徴と捉えられて、名詞化したものだ。
そう、文末そのもの。
西鶴や露伴をみてきたように、近代以前の書き言葉には文末がない。
だが、書き言葉の代表格である候文は、ぱっつんぱっつんと文章がきれ、波のように文末がやってくる。「候」「候」「候」、、、、

候文というのは、大きな定義が一つあって、それは、一人称だ、ということだ。そう、書き言葉だけど、話し言葉なのだ。
と、いうか、「独り言」言葉なのだ。
一人称の小説なんて、長大な独り言だ。

候文が一番多く使われるのは、手紙だ。
一人称の小説、私小説は、例えば漱石の「こころ」の後半に遺書が入っていて、「私」の一人称で、それは遺書という手紙の一種だからもちろんそうなのだが、そこから日本における自然主義文学の展開として、私小説が隆盛して、それは、書きにくい書きにくい言文一致の後のわれらが「國語」でもって「小説」を書かなきゃならない漱石は、遺書という書き言葉であって話し言葉である書簡体の散文を利用したのではなかろうか。それが、今日まで続く近代日本文学のはじめの一歩なのかもしれない、などと、考えている。

次の記事では、鴎外の「興津弥五郎衛門の遺書」を見てみるつもりだ。

それにしても、書簡は古文書として残りやすいから現代でも古文書ファンが多いし、変体仮名を覚えて候文を読めると楽しいものだ。


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