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小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第12回【「本能寺の変」に至る光秀と信長】
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第12回【「本能寺の変」に至る光秀と信長】
信長による足利義昭追放のあと、光秀の政治的立場はどうだったのでしょうか?信長家臣の中でも有能な光秀は「近畿管領」といわれる要職に就きまました。さらに、信長が京都で行った大規模な軍事パレード「京都御馬揃え」では、総指揮に抜擢されます。これは「お前が家臣の中で一番だ」と言われたに等しいことだったといいます。今回は、本能寺の変に至る光秀についてお話し頂きます。
要旨
織田信長による足利義昭追放
↓
「近畿管領(きんきかんれい)」(仮称)
・「天下所司代」村井貞勝+「京都代官」明智光秀=「両代官」
・筒井順慶、池田恒興、中川清秀、・・・といった与力が近畿に集中
・大和国も担当 『戒和上昔今禄』(東大寺と興福寺の争いの裁定)
安土の左義長(さぎちょう、どんど焼き)(天正9年1月15日)
↓
京都御馬揃え(天正9年2月28日)の総指揮を明智光秀が担当
<馬場入りの次第(『信長公記』による)>
一番:丹羽長秀と摂州衆、若州衆
二番:蜂屋頼隆隊と河内衆、和泉衆
三番:明智光秀隊と大和衆、上山城衆
四番:村井貞成と根来衆、上山城衆
五番:織田信忠ら「御連枝の御衆」
六番:近衛前久ら公家衆
七番:細川昭元ら旧室町幕府衆
八番:御馬廻、御小姓衆
九番:柴田勝家と越前衆
十番:織田信長隊
「京都御馬揃え」の意味
(1)織田信長の正親町天皇への圧力(小和田説)
・誠仁親王への譲位要求
(2)公武協調説、公武統合王権論(最近の若い学者の説)
・新大典侍の急死→朝廷内の意気消沈ムード→励ますイベント
織田信長・信忠による武田攻め
・天正10年3月2日 高遠城の陥落
・天正10年3月11日 武田勝頼、天目山麓の田野で自刃
X「天目山の戦い」で討死(戦闘はなかった!)
・討死説:『甲陽軍鑑』『武田三代軍記』
・自刃説:『理慶尼記』『甲乱記』
・天正10年3月14日 首実検 織田信長、武田勝頼の首に罵り蹴った?
※『綿考輯録』(『細川家譜』)による。
・凱旋旅行(徳川家康の領地の東海道)→安土饗応
明智光秀が饗応役→天正10年5月17日に免除
→羽柴秀吉の援軍に→本能寺の変の動機?
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