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浜名湖万葉紀行

《浜名湖周辺の地名が詠み込まれた万葉歌》

①引馬野に 長奥麻呂(巻1-57)
②安礼の崎 高市黒人(巻1-58)
③吾跡川楊 柿本人麻呂歌集(巻7-1293)
④麁玉伎倍 作者不詳(巻11-2530)
⑤麁玉伎倍 作者不詳(巻14-3353)
⑥麁玉伎倍 作者不詳(巻14-3354)
⑦引佐細江 作者不詳(巻14-3429)
⑧乎那の峯 作者不詳(巻14-3448)
⑨知波の磯 丈部川相(巻20-4324)

①引馬野と②安礼の崎



[題詞]二年壬寅太上天皇幸于参河國時歌
[原文]引馬野尓 仁保布榛原 入乱 衣尓保波勢 多鼻能知師尓
[訓読]引間野に にほふ榛原 入り乱れ 衣にほはせ 旅のしるしに
[平仮名]ひくまのに にほふはりはら いりみだれ ころもにほはせ たびのしるしに
[左注]右一首長忌寸奥麻呂
[歌意]引馬野に色鮮やかに咲き誇っている榛(ハンノキ)の原に分け入って衣を染めなさい、旅の記念に。


[題詞](二年壬寅太上天皇幸于参河國時歌)
[原文]何所尓可 船泊為良武 安礼乃埼 榜多味行之 棚無小舟
[訓読]いづくにか 船泊てすらむ 安礼の崎 漕ぎ廻み行きし 棚無し小舟
[平仮名]いづくにか ふなはてすらむ あれのさき こぎたみゆきし たななしをぶね
[左注]右一首高市連黒人
[歌意]どこに停泊するのであろうか(どの港へ向かったのであろうか)。漕いで「安礼の崎」を回り込んで消えた(頼りなさそうな)棚のない舟は。

 どちらも大宝2年(702年)の太上天皇(持統上皇。当時の天皇は孫の文武天皇)の三河(愛知県東部地方)御幸(みゆき)の時に詠まれた歌だと題詞にあります。


 持統上皇は、伊勢国から船で三河国に来られたそうで、行宮(あんぐう、仮宮、頓宮)の1つは、三河国府から少し音羽川を下った、音羽川の河口付近に設けられました。(目印に松が植えられていましたが、その老松は、昭和56年(1981年)、マツクイムシに喰われて枯れてしまいました。しかし、今は、上の写真にあるように、石碑や案内板がたてられましたので、その場所は分かります。)この行宮周辺の野が57番歌の「引馬野(ひくまの)」であり、音羽川河口に58番歌の「安礼(あれ)の崎」があったとされています。


 しかし、この行宮周辺には、「引馬野」「安礼」という地名が残っていません。「安礼の崎」は埋め立てにより消えました。「引馬野」は「御馬(おんま)」のことであろうと、「御馬の野」を「引馬野」と名付け、御馬に鎮座する神社の名を「引馬神社」に変えました。

《持統上皇三河行幸(『続日本紀』)》

・9月19日条:癸未。遣使於伊賀。伊勢。美濃。尾張。三河五國。營造行宮。(使者を伊賀・伊勢・美濃・尾張・三河の5ヶ国に派遣し、行宮を造らせた。)
・10月3日条:丁酉。(中略)鎭祭諸神。爲將幸參河國也。(三河国御幸のため、諸神を祭っ(て旅の無事を祈っ)た。)
・10月10日条:甲辰。太上天皇幸參河國。令諸國無出今年田租。(持統上皇、三河国に御幸す。関係諸国(伊賀・伊勢・美濃・尾張・三河の5ヶ国)の田祖(1段につき2束2把)を免除させた。
・10月14日条:戊申。頒下律令于天下諸國。(文武天皇、「大宝律令」を諸国に頒布した。)
・11月13日条:丙子。行至尾張國。尾治連若子麻呂。牛麻呂。賜姓宿祢。國守從五位下多治比眞人水守封一十戸。
・11月17日条:庚辰。行至美濃國。授不破郡大領宮勝木實外從五位下。國守從五位上石河朝臣子老封一十戸。
・11月22日条:乙酉。行至伊勢國。國守從五位上佐伯宿祢石湯賜封一十戸。
・11月24日条:丁亥。至伊賀國。行所經過尾張。美濃。伊勢。伊賀等國郡司及百姓。叙位賜祿各有差。
・11月25日条:戊子。車駕至自參河。免從駕騎士調。(持統上皇、三河国より帰京(大和国へ還御)。)
・12月22日条:甲寅。太上天皇崩。(持統上皇、崩御。)

 持統上皇三河御幸の謎は、
①時期:なぜ「大宝律令」の頒布という大事な時に都にいなかったのか。帰って1ヶ月後に崩御するとは、重病だったのに寒い時期に旅したのか。
②目的:帰路(陸路)については詳細な記述があるが、三河国で1ヶ月も何をしていたか書かれていない。
です。

 
 遠江国(静岡県浜松市)の国学者・賀茂真淵は、1ヶ月の滞在期間中に浜松に来たかもしれないとして、「引馬野」は「引馬野」(後の三方ヶ原)だと推測しました。そして、「榛(ハリ)」は「萩(ハギ)」であろうとしています。(「引馬野」は浜名湖の東(遠江国敷智郡)にあります。「榛原郡」は遠江国の東端の大井川周辺です。)
 確かに、ハンノキは15mにもなる花木で、「入り乱れ」は、ハギのイメージですね。ただ、ハンノキの花もハギの花も持統上皇三河御幸の時期には咲いていません。
 また、詠んだ長忌寸奥麻呂は、高市黒人とは異なり、中央政府の記録には登場しません。


 浜松市の伝承では、長忌寸奥麻呂は敷智郡(浜松市中区和合町)の人で、持統上皇が三河国に来られたと聞いて、挨拶に行宮へ参上し、以前詠んだ「引馬野に…」の歌を旅の土産にと贈ったとしています。

 「安礼(あれ)の崎」も、遠江国浜名郡新居(あらい。荒井。静岡県湖西市新居町)にあった地名で、式内・猪鼻湖神社があった崎(水没)が「安礼(あれ→あらい。「あれ(阿礼)」は「神の出現」の意)の崎」だそうです。
 ただ、音羽川河口も、新居も平坦で見晴らしがよく、「舟が崎の向こう側に消える」イメージではないです。

 イメージ的には、「音羽川の河口(の宿舎)から西浦半島の先端の「安礼の崎」を見ていたら、舟が西浦半島の反対側に回り込んで見えなくなった(無事、帰港できたか目視で確認できず、心配)」ですね。
 なお、西浦半島の先端部(西浦温泉郷)にある「あれの崎遊歩道路」(通称「万葉の小径」)には、ハンノキなどの万葉植物が植えられています。

③吾跡川楊



[題詞](旋頭歌)
[原文]丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅 亦生云 余跡川楊
[訓読]霰降り 遠つ淡海の 吾跡川楊 刈れども またも生ふといふ 吾跡川楊
[平仮名]あられふり とほつあふみの あとかはやなぎ かれども またもおふといふ あとかはやなぎ
[左注](右廿三首柿本朝臣人麻呂之歌集出)
[歌意]「トホトホ」と霰(あられ)が降る遠江国の吾跡川の川楊。刈り取ってもまた生えてくるという吾跡川の川楊。(雨は「ザーザー」「シトシト」と降るが、霰は「トホトホ」と降る。温暖な遠江国では、霰は滅多に降らない。「霰降り」は「とほ」で始まる語を引き出す枕詞で、実際に霰は降っていない。)


 吾跡川(あどがわ)の所在は不明です。
 湖南の浜名川とする説もありますが、湖北に「呉石(くれいし)」という地名があり、「吾跡も呉石も音読みは『ごせき』である」として、呉石を流れる葭本川を吾跡川だとしています。

※「川楊」はネコヤナギで、「柳」はシダレヤナギである。
※呉石の柳は伐採されて、京都の三十三間堂の建築資材となったという。

④⑤⑥麁玉伎倍



[題詞](正述心緒)
[原文]璞之 寸戸我竹垣 編目従毛 妹志所見者 吾戀目八方
[訓読]あらたまの 寸戸が竹垣 網目ゆも 妹し見えなば 我れ恋ひめやも
[平仮名]あらたまの きへがたけがき あみめゆも いもしみえなば あれこひめやも
[左注]なし
[歌意]遠江国麁玉郡伎倍の竹垣の網目から彼女が見えたら、私はこんなにも彼女を恋しく思うだろうか(見えないから、こんなにも恋しいのである)。


[題詞]相聞
[原文]阿良多麻能 伎倍乃波也之尓 奈乎多弖天 由伎可都麻思自 移乎佐伎太多尼
[訓読]あらたまの 伎倍の林に 汝を立てて 行きかつましじ 寐を先立たね
[平仮名]あらたまの きへのはやしに なをたてて ゆきかつましじ いをさきだたね
[左注](右二首遠江國歌)
[歌意]遠江国麁玉郡伎倍の林にお前を立たせたままで立ち去れそうにない。まずは共寝を先にしよう(用事は後回しだ)。


[題詞]なし
[原文]伎倍比等乃 萬太良夫須麻尓 和多佐波太 伊利奈麻之母乃 伊毛我乎杼許尓
[訓読]伎倍人の まだら衾に 綿さはだ 入りなましもの 妹が小床に
[平仮名]きへひとの まだらぶすまに わたさはだ いりなましもの いもがをどこに
[左注]右二首遠江國歌
[歌意]遠江国麁玉郡伎倍の人たちが使っている斑模様の寝具に綿がたくさん入っているように、私も入りたかった。彼女の寝床に。

遠江国麁玉郡伎倍の位置については、
・静岡県浜松市浜北区貴布祢
・静岡県浜松市東区貴平町
・静岡県浜松市天竜区春野町領家(賀茂真淵の門人・内山真龍は、秋葉山本宮秋葉神社を『日本三大実録』の「岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)」の後身社とするが、春野町は、麁玉郡ではなく、周智郡である。)
など諸説あります。(『和名類聚抄』には、「麁玉(あらたま)」は「有玉(ありたま)」(浜松市東区有玉北町、有玉南町、有玉西町、有玉台、半田町、半田山一帯)に変わったとある。)

 この遠江国麁玉郡伎倍に住む「伎倍人」は、特殊な能力を持つ裕福な人達だったようです。「半田(はんだ)」は「秦(はた)」であり、織物技術を持つ秦氏の居住地だったと考えられています。氏社は式内・朝日波多加神社(ご祭神:栲幡千千姫命 )か。


⑦引佐細江



[題詞]譬喩歌
[原文]等保都安布美 伊奈佐保曽江乃 水乎都久思 安礼乎多能米弖 安佐麻之物能乎
[訓読]遠江 引佐細江の みをつくし 我れを頼めて あさましものを
[平仮名]とほつあふみ いなさほそえの みをつくし あれをたのめて あさましものを
[左注]右一首遠江國歌
[歌意]遠江国引佐細江(現在の細江湖)の澪標のように、私を頼りにさせておいて(私を誘惑しておいて)、もう浅くなっちゃった(心変わりして忘れられた)みたいですね(泣)


 難解な部類に入る歌です。
 歌意を考える前に抑えておきたいことは、①「譬喩歌」に区分されているので、何かを何かにたとえている歌であること、②「澪標」(語義は「水脈つ串」)は、水深が浅いから立てることができる棒です。つまり、澪標がある場所は、水深が深い場所ではなく、浅い場所だということです。(「水脈(みお)」は、舟が通る水深が深い場所のことなので、間違いやすい。)

 この歌の歌意は不明ですが、①あなたは舟を座礁から防ぐ海の標識「澪標」のように頼りになる、②あなたの心は海のように広いが、澪標が立ってる場所のように浅いんですね、といったところでしょうか?

 昔の地図には、「細江湖」「奥浜名湖」ではなく、「引佐細江」とありますが、『万葉集』の「引佐細江」は、湖(正確には湾)の名ではなく、「引佐郡伊福郷にある細長い港」(広い港は「大江」という)のことで、都田川と細江湖の合流部分の港のことであり、見守る港の神が式内・乎豆(おず)神社(「乎豆」は「御津」の意)になります。なお、澪標は大正時代まであったそうです。(「細江町」の「細江」は、昭和30年(1955年)4月1日に引佐郡気賀町と中川村が合併した時に、この万葉歌からとった町名であり、古代からの地名ではありません。)

⑧乎那の峯


[題詞]なし
[原文]波奈治良布 己能牟可都乎乃 乎那能乎能 比自尓都久麻提 伎美我与母賀母
[訓読]花散らふ この向つ峰の 乎那の峰の ひじにつくまで 君が代もがも
[平仮名]はなぢらふ このむかつをの をなのをの ひじにつくまで きみがよもがも
[左注]なし
[歌意]向かいの山(尾奈の浅間山)に咲いているマンサクの花が散っていますが、君(浜名郡司。一説に浜名県主)の世は、このマンサクの花のように終わること無く、風雨で山が崩されていって、山裾が浜名湖の洲(湖岸)に達するまで、続きますように。


 奈良官道板築(ほうづき)駅付近の板築山(ほうづきやま、標高226m)から尾奈の浅間山(標高78m)を見下ろして詠んだ歌だという。

⑨知波の磯


[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)
[原文]等倍多保美 志留波乃伊宗等 尓閇乃宇良等 安比弖之阿良婆 己等母加由波牟
[訓読]遠江 志留波の礒と 尓閇の浦と 合ひてしあらば 言も通はむ
[平仮名]とへたほみ しるはのいそと にへのうらと あひてしあらば こともかゆはむ
[左注]右一首同郡丈部川相 ( / 二月六日防人部領使遠江國史生坂本朝臣人上進歌數十八首 但有拙劣歌十一首不取載之)
[歌意]遠江国浜名郡の「大神郷知波の磯」と「贄の浦」(贄代郷の浦)とが隣り合っているように、家族のいる故郷(遠江国)とこの地(赴任先の北九州)が近くであれば、簡単に連絡を取り合えるだろうに(遠く離れているからそうはいかない)。


北九州の守りに就いた防人(さきもり)の歌です。

「しるは(志留波)」は、「知波」と漢字表記されるようになって、「ちば」と読まれるように変わってしまったようです。

上の写真は「知波の磯」で、赤い橋の奥が贄代郷になります。


 最後に「万葉の森公園」(浜松市浜北区平口)へ。
 「万葉の森公園」には、万葉植物が約300種類植えられています。

※万葉の森公園(浜松市浜北区平口)
http://www.hama-park.or.jp/f-kanri/f-manyo/manyo.html

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