『伊束法師物語』
扨、令和元年度も後期に入りました。
──何しようかな?
どうせやるなら、需要のあること、サポートしていただけること
がいいよね?
1月から『麒麟がくる』が始まるから、明智光秀関係の連載がいい?
個人的には『伊束法師物語』が気になってます。
(1)『伊束法師物語』について
別名は『三河記』『伊束居士物語』『伊束岡崎記』『三遠平均記』『三州岡崎秀栄記』など。
・本来は『三河記』であるが、『三河記』というタイトルの本は10冊以上あるので、混同しないよう、著者の名を使って『伊束法師物語』と呼ぶ。(大久保彦左衛門忠教の『三河記』は『三河物語』『大久保忠教自記』『大久保彦左衛門筆記』と呼ぶ。)『三河記』と『伊束法師物語』は同じ原本からの写本だろうが、一致度は80%くらい(笑) 『三河記』の方が詳しく、『伊束法師物語』を読んでいて、分からないことがあったら『三河記』を読めば分かる(苦笑)。『伊束法師物語』の写本も複数あって、一致度は95%くらい。1ページに3箇所は違う表現がある(苦笑)。
・筆者は、織田信長の軍師とされる軍学者・伊束であるが、「伊東」と誤記されることが多く、『伊東法師物語』というタイトルの本もある。
「尾張意足軒宛朱印状」(『今井理一氏所蔵文書』)
熱田末社高倉宮遷宮之儀、可致執行之旨、可然候、依之青銅五千疋令寄附候、自然諸禰宜并役者往古之例之族雖有之、不可有許容、若於違背之輩者、可為曲事候、尚以諸末社無退転□神前之輩及神主等無油断之様可被申付候、悉之、以状、
元亀弐
八月七日 信長(朱印)
意足軒
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1006/0723?m=all&s=0723
「意足居士、葉栗郡光明寺住職、好学頗講兵書。伝云、東照神祖、甞謁織田信長曰「此僧学兵書。伝八幡太郎伝。吾欲学之。然非携之。帰浜松。悉受其伝」。意足啓曰、「君伝八幡石川日向守家成、所与意足書皆蔵。在光明寺。」(『張州府志』)
「松平秀雲作 靑井意足畫像贊」(靑井整氏所蔵史料)
意足居士者尾州葉栗郡人也、甞薙髪住郡之光明寺、晩年還俗爲隠淪、頗有才略善兵書、織田信長寵遇之、信長與濃州齋藤氏有隙、遣居士密到稻葉山城覘之、歸曰、禍起蕭墻、國亡必矣、信長曰、何以知之、對曰、予登城見廳事、挂鎗其刃向内、即知有倒戈之變也、未幾濃州三將通欵、信長急攻稻葉山城陷、齋藤氏出奔于北越、其後、東照神祖與信長講和、來于淸洲城謁信長時、居士侍側、信長顧謂、神祖曰、是葉栗郡光明寺增也、今還俗事我、自言傳八幡太郎兵術、然以我平氏不肯授焉、公爲源氏華冑、宜受其傳、故以居士屬 公、神祖大喜即載之以歸、居士曰、 君爲義家之裔、宜以家爲名、因改 御諱、大卒、神祖行軍築城、其法盡依居士之教、以成大業云、贊曰、
猗歟居士逃釋歸儒
軍略兵術學要樞
輔佐神祖以助雄圖
儼然遺像千載楷模
この「意足軒」「意足居士」が「伊束法師」のことであり、「伊東」は誤記だという。
伊束法師は、織田信長の紹介で岡崎へ行き、そこで書いた徳川家康の伝記(織田信秀の人質となった天文16年(1547年、家康6歳)から浜松城へ移った元亀元年(1570年、家康29歳)までの23年間の伝記)が『伊束法師物語』である。
軍学者であるが、史実とは思えないことも書かれているので注意を要する。(学者は無視していて(?)学術論文には引用されない。)
(2)内容(目次)
■上巻
一 岡崎与駿府一味之事
二 廣忠公御死去之事
三 安祥之城駿州ヨリ攻討并竹千世殿御帰国事
四 竹千世殿駿州在府并御供衆之事
五 御軍初之事
六 岡崎一門中并家老之者義元卿江訴之事
七 大高兵粮入之事
八 義元尾州江発向之事并義元於桶狭間討死之事
■下巻
九 岡崎江御帰城之事并同氏真与手切之事
十 織田信長領分城々之事
十一 西三州西尾之城落去之事
十二 元康公信長与和睦之事
十三 軍法御相傳并御名乗替之事
十四 東三州衆逆徒之事
十五 牛窪吉田長澤三ケ之城落去之事
十六 一宮後詰之事
十七 佐和木八幡之取手落去之事
十八 吉田之城明渡事
十九 家康公与晴信国切兼約之事
廿 懸川城落居并濱松之城明渡事