『伊束法師物語』四「竹千代殿駿州在府、並びに、御供衆の事」
『伊束法師物語』(全20章)を訳し始めたが、意味が分からない箇所が多い。そういう時は『三河記』を読むと分かる。真偽不明だが、『三河記』(後の『伊束法師物語』)を発行して「よく分からない」と苦情が来たので、丁寧に説明した改訂版『三河記』(後の『三遠平均記』)を出したのではないかと想像される。『伊束法師物語』として知られる本であるが、訳すなら『三河記』の方が良かったと反省している。
(1)あらすじ
こうして(前章参照)尾張国から竹千代(後の徳川家康)は岡崎城へ戻ったが、今度は駿府へ人質として向かった。少将宮町の「駿府人質屋敷」で、御供衆「七人小姓」や雑兵など100人と暮らし、元服すると「松平元信(後に元康)」と名乗り、今川義元は、今川一族の瀬名姫と結婚させた。三河衆にとって、松平元康(後の徳川家康)は「領主」という感覚であったが、今川義元は「家臣」という感覚であったのだろうか。
(2)原文
去程に、竹千世殿岡崎に十日余御滞留ありて、天文己酉十一月十(「廿」の誤り)二日、岡崎を御立有りて、駿府へ御移り、少将の宮町に新造に屋形を立てられ、動座有りける。
其頃、御供衆、平岩七之助、阿部善九郎、酒井与四郎、高力与左衛門、阿部新十郎、内藤与三郎兵衛、榊原平七郎、原見太朗兵衛、江原孫三郎、平岩新八郎、平岩善七(十?)郎、天野又五郎、石川彦次郎、石川内記、上村新六郎、其の外、雑兵百余人にて在府ましす也。
然に義元卿、由、儀、共に無く候。岡崎、山中普代の領地を皆おさへとられ、御扶持方計(ばかり)にての御宛行(あてがい)なれば、万事不自由にて、侍衆を召し抱らるべき様もなかりける。其の上、日夜の働きに、岡崎衆先手と有りければ、普代の面々(此頃)過半討死申ける。残り少なくに成らば、竹千世殿をも何とぞかこれ有るかと存ずるは、寔(まこと)口惜しき次第也。され共、御幼稚の 身を引き具して牢人申すべきには及ばず、 譜代衆は悲歎申すばかり也。
角て年月明ぬ昏ぬと過ぎぬれば、竹千世殿、漸く十三にならせ給ふ。千年もふるやうに送れる。然るに、天文甲寅正月二日に、御元服成られ、次郎三郎元康公と申し奉る。同長臣の面々、受領官途これ有る也。
翌年乙卯二月十三日、関口刑部少輔息女北の方とこれ有り。御輿入る。義元卿御一門也。
(3)現代語訳
こうして(竹千代は、尾張国(愛知県西部地方)から三河国(愛知県東部地方)に帰国して岡崎城(愛知県岡崎市)へ入り)、竹千代は岡崎に10日間余滞留して、天文己酉十一月十二日(「天文18年己酉11月12日」も、『三河記』の「天文16年丁未11月22日」も誤り。正しくは「天文18年己酉11月22日」)、岡崎をたって、駿府(静岡県静岡市)へ移り、少将ノ宮町に新しく屋敷を建てて住んだ。
その頃の御供衆は、平岩七之助親吉、阿部善九郎正勝、酒井与四郎忠勝、高力与左衛門清長、阿部新十郎、内藤与三郎兵衛正次、榊原平七郎忠政、原見太朗兵衛、江原孫三郎利全、平岩新八郎、平岩善十郎康重、天野又五郎康景、石川彦次郎、石川内記、植村新六郎家政であり、その外、雑兵100余人とで駿府に住んでいた。
ここに今川義元は、理由もなく、岡崎、山中譜代以来の領地(「松平家宗主が岡崎城や山中城に在城していた時以来の領地」、意訳すれば、松平元康の祖父・松平清康が所有していた領地」)を全て取り押さえ、の領地を皆おさへとられ、扶持方(食料)だけがあてがわれたので、何かに付けて不自由で、侍衆を召し抱える余裕はなかった。その上、戦となれば、日夜を問わず働かされ、しかも岡崎衆は先手(先陣)であったので、譜代の家臣の過半数が討ち死にした。家臣の数が、残り少なくなると、竹千代もなんとか生き延びて欲しいと考えてしまうのは、真に残念である。(『三河記』には「角テ残スクナニ成ルナラハ、往々(ゆくゆく)ハ、竹千代殿御身ノ上如何有ヘキカト危ブマヌ者モ無リケリ」とある。)とはいえ、幼少の竹千代を連れて浪人になるまでは及ばないとして、譜代衆は悲歎にくれていた。
こうして年月は、明け、暮れを繰り返して過ぎ、竹千代は、漸(ようやく)13歳になった。今までの月日は1000年あったのではと長く感じられた。そして、天文23年(1554年)1月2日、元服して、「松平次郎三御元康」(正しくは松平元信。「元」は今川義元から、「信」は武田晴信からという。)と名乗った。この時、家老衆も受領名の官途状(官職を私称することを許した書状)を頂いたという。
翌・天文24年(1555年)2月13日、今川一族の関口親永の娘・瀬名姫(後の築山殿)と結婚した。(この時、名を「元信」から「元康」に改めた。「信」は織田信長に通じるからよくないとして、祖父・松平清康の「康」を使った。)
(4)考察
・天文18年(1549年)11月6日 安城合戦
・天文18年(1549年)11月9日 人質交換
・天文18年(1549年)11月22日 岡崎発
・天文18年(1549年)12月27日(一説に11月22日)駿府着
「君は天文十六年、六歲にて尾州の擒とならせられ、八歲にしてことしはじめて御帰国あれば、御家人はいふまでもなし、岡崎近鄕の土民までも君の御帰国をよろこぶ所に、今川義元、岡崎の老臣等に「竹千代、いまだ幼稚のほどは、義元あづかりて後見せむ」と申送り、十一月廿二日、竹千代君、また駿府へおもむきたまひしかば、義元は少将宮町といふ所に君を置まいらせ、岡崎へは駿河より城代を置て、国中の事、今は義元おもふまゝにはかり、御家人等をも每度合戰の先鋒に用ひたり。君かくて十九の御歲まで、今川がもとにわたらせらる。其間の嶮岨艱難言のはのをよぶ所にあらざりしとぞ。(伊東法師がしるせし書に、「広忠卿うせ給ひ、竹千代君、いまだ御幼稚なれば、敵国の間にはさまり、とても独立すべきにあらず。織田方に降參せんといふもあり。又は、今川は旧好の与国なれば、今川に従はんこそ旧主の遺旨にもかなはめといふもありて群議一决せざる間に、義元いちはやく岡崎へ人数をさし向、城を勤番させければ、岡崎の御家人等は力及ばず、何事も義元が下知に属したり」と見ゆ。此説、是なるに似たり。)
竹千代君、御とし十五にて今川治部大輔義元がもとにおはしまし、御首服を加へたまふ。義元、加冠をつかうまつる。關口刑部少輔親永(一本「義広」に作る)理髮し奉る。義元、一字をまいらせ、「二郞三郞元信」とあらため給ふ。時に弘治二年正月十五日なり。その夜、親永が女をもて北方に定めたまふ。後に築山殿と聞えしは此御事なり。」(江戸幕府の公式文書『徳川実記』)
・天文23年(1554年)1月2日 元服。竹千代→松平元信
・天文24年(1555年)2月13日 結婚。松平元信→松平元康
★元服:通説では14歳の天文24年(1555年)3月
★結婚:通説では15歳の弘治2年(1556年)1月
※江戸幕府の公式文書『徳川実記』では、共に弘治2年(1556年)1月15日。
※天文は1555年の10月23日まで。10月24日から弘治元年。
※結婚は元服の1年後で、「元信」という名は1年間使われたと思われる。
人質時代、徳川家康は、「駿府人質屋敷」に住んだが、その場所ははっきりしない。最初は「宮の前」(静岡浅間神社の前)にあり、駿府大火により妻の実家「関口屋敷」に仮住まいし、後に祖母・於富の方が住む華陽院(静岡市葵区鷹匠二丁目)付近に「新駿府人質屋敷」を建てて住んだという。
「少将宮町」の「少将井宮」は、現在の「小梳神社」で、駿府城が拡張されて社地が三の丸になったので、現在地(葵区紺屋町)に遷座したという。
※『駿河志料』「宮ヶ先御旅館跡」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192981/102
「七人小姓」のメンバーは古文書によって異なる。一部、途中で交代したのであろう。
★七人小姓(7人)
・平岩七之助親吉(8歳)※同年齢で最も仲が良かった。
・平岩善十郎康重(6歳?)
・阿部徳千代正勝(8歳)
・榊原平七郎忠政(8歳)
・天野又五郎康景(13歳)
・石川与七郎数正(9歳?)
・阿部元次(9歳)
★従者(100~200人)
・酒井与四郎正親(29歳)
・内藤与三兵衛正次(20歳)
・上田万五郎元次(57歳)
・高力与左衛門清長(20歳)
・安部重吉(19歳)
・野々山藤兵衛元政(12歳)
人質時代のエピソードは数多いが、中でも「安倍川原の石合戦の事」(『太平夜談抄』『故老諸談』『紀年録』『名将言行録』)は有名である。
天文20年(1551年)、竹千代は、石合戦を見物に行った。一方は300人で、他方は140~150人。見物者は多勢の方が勝つと思っていたが、竹千代は「小勢の方が勝つ」と予言し、実際にそうなると、「そら見ろ」と言いながら従者の頭を扇子でビシバシ叩いて喜んだ。従者が判断理由を聞くと、
──多勢だと人任せになる。小勢だと必死の結束をする。
と言った。今川義元がこれを聞いて、「将門に将あり」(代々大将を出す武士の家に、まさしく大将となる人物が現れた)と言って大いに喜んだという。
後の「桶狭間の戦い」で、大高城から合戦を眺めていた松平元康は、幼き日のこの石合戦を思い浮かべていたかも知れない。(一説に小勢の方が勝てたのは、新手の仲間が加わって多勢になったからだという。)