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りょうけん的 読書感想文の様なモノ 『ことばの番人』 高橋秀実 著 241212
<似>
僕は時々文章を書く。時々と云ってもそれはほとんど読書感想文だけなのだけれど。そういうのを文章を書く などとは云わないのかもしれない。しかし書くからには色々と気になることが有るし本は沢山読んでいるので気になる書き方などはそこらいらじゅうに一杯有って「おいここは間違ってるだろう,校閲校正者は一体なにやってんだ」と独りでいきまいている事もある。
で本書。僕の読むこの類の本の著者今迄は間違いなく僕より年上だった。年長の人に教えを乞う為に読む,という体だった。ところがなんとこの本の作者は僕よりも二つ年下。さてどうする年下に教えを乞うて良いものだろうか。しばし考えて,いやしかしこういうズバリ読みたいタイトルの本は早々あるものじゃない。年下だっていいじゃないか,と読み始めたのであった。(というほど大げさな事では無いのですが。笑う)
ところがこの著者がちょいといやかなり癖がある人らしいんだ。間違いなく僕の先入観だけれど,この手の国語的教則本?の類を書く人は とても真面目でおとなしく優しい人だ,というつもりでいた。 が,本書は違った。非常にアクの強い作者だ。なんなら自分で自分の事を「(私は)俺様感覚が強いせいか…」と言い切っている。あっぱれである。さらに僕は この本を書いたのは「校正」を仕事にしている人なのか,と思っていたがどうやらそうではなく,我のとても強いノンフィクションライターが書いたのであった。やれやれ。
「どうすればうまい文章が書けるのですか?」という問いかけから本書は始まっている。まあつまりはそういう事でいいのだが,僕の場合は少しだけ違っていて 「どうすれば他人が興味をもって面白く読んでくれる文章が書けるのですか?」である。ずばりこっちである。まあその基本として本書のテーマである「誤字脱字は校正でなおす!」にはどのみち行き着くのであろうが。(今回の感想文はほとんど【全部ネタバレ】です。もうしわけない)
先に著者の事に少し批判的に触れたが,非常に共感できる物言いではあるので本文から長いが抜粋「…ネットの普及によって彼ら(校正者)の不在が露呈している。目を覆うばかりの誤字脱字の氾濫。校正者の不在によって誤記脱字が世にあふれかえっているのだ。送られてくるメールは漢字変換ミスのオンパレード,おそらくは読み返されていないのだろう。ネット上の書き込みもひとりよがりを超えた罵詈雑言や事実関係を無視したデマの…」 御意。 同じことを僕も強く感じている。
がしかし,やはり著者は偉そうな物言いをする。校正者の不在を訴えまあいろいろ言うより校正者と語り合った方が良いだろうとノンフィクションライターとして日ごろお世話になっている某校正者を訪ねるのだが,なんとそのことを「・・・校正者のもとへ出向くことにしたのである。」と云っている。「出向く」とはなんとも偉そうな!普通は「伺う」とか「訪れる」んだろうに。自分の方から出向いてやりました感満載なのである。言ってる事は悪くはないがホントに態度が偉そうな人だ。
ちなみに「あとがき」はこれ又偉そうで「三島由紀夫じゃない」ときたもんだ。もう突っ込みどころ満載の著者高橋秀実についてちょっと記す。巻末の著者紹介から。1961年生まれ。僕より2つ年少。東外大のモンゴル学科卒業。モンゴル学科って何教えるところなの?あ,そーか外大なんだからモンゴル語かぁ。ノンフィクション著書はいっぱいあるみたいだが,僕はもちろんどれ一つ読んだ事は無いし聞いた事も無い。まあ本の題名みただけでも,こいつ偉そうな態度の人だろうなぁという事は分かるからこれでいっか。笑う。
ごく最初の方に校正の際の「改善策」という体で次の三つが書かれている。 1.句読点を一つ入れる。 2.言葉の順番を変える。 3.修飾語と修飾される語を近くにする。(この3つは偉そうな著者の言ではない) 三つともなるほどー,である。僕も自分で書いた文章を読み直して,あれ分かりにくいなぁ,と思った時に知らずに この三つで対策/改善している。あながち間違ったやり方ではなかったのだ。めでたしめでたし。
著者が「出向いた」と偉そうに言い放ち最初に訪れた校正職者 山崎良子さん。彼女は 例えば作家さんの文章を構成していて 或るパターンについては「突っ込みどころがいっぱいあります。」という事を言っている。「突っ込む」ってあなたお金を頂いてその方の校正仕事をされているんでしょ。その相手に突っ込んでいいんですか。どうも校正に関わる人達は品行方正さに欠けるようなきらいがある。それとも山崎良子さんのモンダイではなくやはりこの我の強い著者高橋に問題はあるのだろうか。後者の様な気が僕はする。笑う。
参考にしたり引用したりした文章は本文の文末にそのまま参考図書という体で詳しく追記している。なのに巻末には又それらの一覧が再度細かい字で全て載っている。まあ巻末のは並び順も筆者の趣味で並べているみたいで索引として探そうにも手間がかかってしょうが無くまずそこを読む事は無いが,鉄板的無駄な行為だな と思った。ひとりよがり とも云うか。
二人目に訪れた校正職人境田さんのお話。初期の頃の校正業務とは例えば手書きの原稿と活版印刷機に植字された字が違っていないかを比べる事だったらしい。「校」とは比べるという意味なのだそうだ。それが時代を経てワープロ/パソコンによるテキストデータに原稿が変わっていった結果,先に書いた活版印字と比べる事は無くなり変わって誤字脱字や固有名詞のチェック,事実関係の確認などに重点が置かれる様になったらしい。これらの仕事はもう校正では無くて「校閲」になっているのだそうだ。まあ校正と校閲がいっしょでも別に悪くはない。
115ページにおかしな表現がある。まあ言葉を扱う図書でなければ気にも留めない様な事だが,殊更著者の我が強いので僕はこういう事も書いて鼻をあかしたくなるのだ。“…ちなみに「隣」も俗字。本字は「〇」で,俗にまみれて左右反転してしまったらしい。” (「〇」は「隣」の偏とつくりが左右入れ替わった字) この著者の文章の何がおかしいか。そう 反転 ではないのである。反転とは鏡に写した状態/ひっくり返った状態 を云うのだ。この「隣」の例では左右入れ替わっただけで 反転 などしていない。ああこれで僕の溜飲は下がった。
僕がここの様な読書コミュSNSに,読んだ本の感想を書く時に一番多いパターンは 著者や編集者/出版社の悪口を云うこと。その悪口は文章の間違いや おかしく矛盾などしているところ 蓋然性に欠ける所などの指摘が多い。それは決してそういう事を書いて著者らに読んでもらって次からは良い文章を出版してもらおう,なんて前向きな姿勢からではない。(だって彼らが読む筈はないものw)
僕自身,書けば自分の溜飲が下がって満足気分になるからだ。そりゃあ誰かに読んでもらえるのが一番嬉しいが,これだけ文章が錯乱しているネット世界だともう素人他人の文章なんて読んでられるか!ってのが皆さんの本音だろう。今はそのような人が沢山集まってSNSを構成していてネット全体をも創ってしまっているのだ。みんなが執筆者なのだ。
僕なりの結論めいたものをここで一旦書いてしまうと,今やこれだけ多くの人が文章を書いてネットにあげる様になったからにはもう昔のように 言葉や文章に厳格さを求める行為は必要なのだろうか。それはプロにだけ必要なのであって,大部分の素人文章は,のっけで我強の筆者が取り上げたメールなどに代表される様に誤字脱字のオンパレードが当たりまえでもう仕方ないではないですか。彼らは文章のプロではないのだから。
後半に『校正往來』という書物の事が出て来る。いや単行本とかではなくどうやら雑誌の類の様だ。「日本校正協會」の機関紙という事らしい。なんでも昭和5年に刊行されている。そこには,万葉集には誤植が多い,と云う話から最近某大臣が「追悼」を「ついたく」と読んだという話まで,もう一体何がこの機関紙の編集方針なのか さっぱりわかない内容が縦横無尽に載っているらしい。いや我強の著者がまた自分の好みで選んで面白おかしく書いてるだけ,かもしれない。多分そうだろう。笑う。
少し興味あって気にもなったのでこの『校正往來』という機関紙について調べたのだが いくら検索しても昭和4年発行の第一号と同5年の第二号以外の結果がヒットしない。いったいどうなっているのだ。もしかすると著者の妄想か。本書著者の愚的塩加減塩梅からすると有りそうなことだなぁ。
第九章は『日本国誤植憲法』という章題。何のことだろうと読み始める。そこには我強著者の勝手な解釈で「この条文は誤植である」という説法が これでもか と書かれていた。相手は日本国憲法だぞ。しかもその解釈は個人的主観的なものなのである。加えて多くは他人の意見の受け売り/同調だったりする。もひとつおまけに「原文」であるらしいマッカーサーが立案したとされる「英文」を自分で訳して比べて「原文と違っている,勝手に変えている」とのたまっている。一体お前さんどういう料簡だい!マッカーサーの原文なんてどうでもいいんだよ!
この日本国憲法を個人的主観で揶揄する発言は「校正」というもっとも中立性を必要とするだろう行為から一番遠いところに在るように僕は感じた。もしも本書の我強著者が反面教師的な表現でこの稿の部分を書いているのだとすれば少しは納得がゆくがその旨はどこにも書かれていなくて「ドダ!」的な言葉が散見されるだけだ。腹が立ってきた。先に読んだ平野啓一郎の短編作品『ストレス・リレー』の様な連鎖が始まりそうだ。そのストレス・バイラスの源泉は我強著者高橋秀実 である。
第十章『校正される私たち』という章の一節では医薬品の効能書きの校正についての記述。実際に製薬会社でその効能書きを担当している方に会って話を聴いている。なるほど と思ったのでその要旨を書いて置く。大概のモノは見ればそれがなんだかは分かる。例えは何でもよいが,食パンは見れば食パンと分かるしハンバーグだってそうだ。
ところが薬品は見てもそれがなんだかは分からないのだ。効能書きを読んで初めて,ああ胃痛にきくんだなとか咳を鎮めるんだな,一度にのんでいいのは三錠までなのだなとかが分かる。つまり効能書きが全てなのである。従って絶対に間違えてはいけないのだそうだ。間違えた場合万一には人死がおきるのだから。なので医薬品効能書きの校正作業は慎重に慎重を重ねるらしい。けど僕が個人的に思うのはどの薬の効能書きもなんだか同じ様なことだけ書いてあるなぁ,である。まあ余計な事は書かない方が良い事は分かるが。
TOPPAN株式会社(凸版印刷が社名を変えた)が販売している「review-it!」シリーズ,というAIによるオンライイン校正ツールについて色々書いている。いや書いているというよりこりゃもう完全にステマになっている。こんな事やあんなことが出来て それはそれは大変良いものである…と云う調子だ。高橋君 きみは凸版さんになにか貰ったのかい。なら「ステマR」とちゃんと書いとかなきゃルール違反だわね。笑う。
そしてとうとうオープンAI社の生成AI ChatGPTと著者とのやり取り記録をさも貴重そうに全部書き写している。おいChatGPTがこういう反応を示すことはもう大概の読者は知ってるぞ。少なくとも僕は著者が書いている事とほとんど同じ類の体験を実際に経験している。そんなこと本に書いてどうすんだ!ノンフィクションとは言えこれじゃ単なる書き起こし じゃないか。それこそAIにでも任せておけばいいのだ。本として上梓するとはなんとも我は強いがプライドはあまり無い作家さんだなぁw。
最後はなんとDNAと校正の話をムリヤリくっつけて話している。直接校正とは関係無いが,なんでもDNAの長い細胞分子一個の長さは2mあるのだそうな。そういうのが37兆個で人間は出来ている って。どんだけ長いんだ人間はw。だいたいモンゴル語科のきみがどうしてそんな事をつぶさに知ってんだ。また人の知識をさも自分のモノにしたみたいな書き方してるし。歴代作家でそういうのが許されて読者によく読まれたのは 「さも見て来た様に」臆面も無く書きまくった司馬遼太郎だけだぞ!
さてそろそろ核心に触れる。この本の原稿の校正は一体誰がやったんだ。こんな本の校正など誰もやりたがらないだろう。もしかしたら著者が自分自身でやったのか。それでは校正になってないだろうに。だからかへんてこな話題がそのまま素で多いのはw。いや実はこの本の書き方って僕の書く文章/内容ととても似ているのな。笑う。
…読み終えここ迄の感想書きも校正完了の後,この高橋秀実とはいったいどんな顔の人だろうとググってみると……なんとなんと 2024年11月つい先月に世を去っていのだ。なんともやるせない感慨だ。今更ここまで書いて来た 『読書感想文の様なモノ』 を書き直すつもりは無いが,本当はこの我の強い刺激的な作風の最新次作を読みたかったものだ。詮無き事なので既刊作品を読む事にします。ご冥福を祈ります。