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安倍晋三の遺志を継いでいるのは野党とマスコミである

安倍元総理一周忌

世界を揺るがせた衝撃の事件から1年が経った。
宰相経験者が銃弾に倒れるという民主主義を否定するような銃撃事件が起き、地球儀外交を展開してきた安倍元総理の業績の大きさ、憲政史上最長の政権を誇ってきた安倍元総理の働きが、改めて注目されると共に、国葬儀を行うことで世界中のリーダーがその死を悼んだ。
安倍元総理は、7年9ヶ月の憲政史上最長の政権を維持しながら、森友問題、加計学園問題等、謂れなき批判を真正面から受け止めつつ、国政選挙を全勝した。結果、自身の病気を理由に総理を辞任するまで、国会追及においても選挙においても無敗のまま勝ち逃げしたのだ。
それを最も苦々しく思い、執拗に出所怪しい情報に基づいて国会を空転させた野党は、ハラワタが煮え繰り返る思いだったろう。
確かに旧民主党は政権を担った時期はあった。鳩山由紀夫に始まり、それに続く菅直人と、憲政史上屈指の二大ポンコツ総理を排出した民主党にとって、そんな黒歴史はどうでもよくて、2012年の政権交代以後、一度も勝てないまま勝ち逃げされた安倍元総理こそが、憎んでも憎みきれない、獅子身中の虫だった筈だ。
旧民主党が離合集散を繰り返してきた野党における「烏合の衆」であることは論を俟たないが、2016年の民主党解散と民進党結党、そして現在の立憲民主党までの道のりの中で、旧民主党議員の多数が解散総選挙に打って出た野田元総理を見限り、フラフラとあっちこっちに行ったり来たりする状には、国会議員の矜持のカケラすら感じられない。
再び三度、野党再編が行われる惨状の中、必死に安倍元総理の追い落としを画策するも、全てが灰燼に期した。
ではその旧民主党から現在の立憲民主党に至る議員たちの思いはどこにあるのだろうか?
それは経済、安保、外交、防衛の全てにおいて政治家としての力量においても、胆力においても勝ち目が無かった安倍元総理への憧憬ではないかと考えている。
今になってさえ、モリカケ問題を持ち出す国会議員もいるやに聞いているが、いずれにしても、安倍元総理が暗殺された直後であってさえ、東京新聞のように兎に角安倍批判「だけ」を繰り返してきた一部マスコミにも、倒したくても倒れず勝ち逃げした安倍元総理への遺恨を感じずにはいられない。

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しかし一方で今回の安倍元総理一周忌法要での様子や、犯行現場に献花に訪れた人々の様子、またSNS上での反応を垣間見るに、有権者の多くは未だ安倍元総理への思いが強いことが分かる。

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安倍元総理への思い

特に、安倍元総理への思いを強くしているのは、通信社、立憲民主党、社民党、日本共産党、れいわ新選組といった、安倍元総理憎しを繰り返してきた人々だろう。
彼らが日本国民や世界の人々から信頼と共感を得ることはほとんど無いため、自分たちに無いものを持っていた安倍元総理が悔しくて仕方ないとしか思えない。それらの報道、発言が続いていることを見れば一目瞭然だ。
それは自民党内の一部の議員もそうかもしれない。
憎まれ口の一つも言わなければ気が済まない人々は、それ自体が、自分に無いものへの憧れやどれほど努力しても安倍元総理の足元にも及ばない現実を自覚しているだけの言語行動にしか見えないのだ。
仮にモリカケ桜を再度持ち出したり、アベノミクス批判を再度繰り返すならば、それは他に批判の矛先をどこに向けて良いか分からない証左に他ならないだろう。
事実を明示して批判するならともかく、感情論でのみの批判は、誰に対しても説得力が無い。批判だけの尺度でしかものが見えない人にとっては、批判することそのものが目的になっているため、中身はなんでも良いということになる。
しかし、そんな近視眼的な見方と発言は、結局、自分に返ってくる。
朝日新聞をはじめ各紙は部数を減らし、テレビ局はCMを減らし、言いがかりのような批判を続けてきた野党議員は、選挙の審判を受け、表舞台から姿を消した。
これは何を意味するか?
国民や有権者はそのような批判のための批判を求めていないのだ。求められていないものを押し付けるから、疎まれ、外されてしまう。それが自然の摂理だろう。
安倍政権批判を繰り返してきた野党やマスコミの論調に最も欠けていたのは、誰の為の批判なのか?という点だ。確かに野党支持者は存在するし、オールドメディアを金科玉条とする国民も一定数は存在する。ではそれを世論と言えるだろうか?
一方で、政権を負託する有権者が、マイナス思考のマスコミや野党の論調に同調して票を投じたり、更なる世論を喚起しようと思うだろうか?
その答えは自明ではないか?既に答えは出ているではないか。
ともあれ、では現在の野党が宗旨替えして与党自民党に与するとは考えにくい。野党は与党政権の監視役で、批判をこそ行うべきだと言うものもいるが、私はそうは思わない。
報道とは誰のものか?政治とは誰のものか?の焦点が曖昧であって、誰がその意見を肯定すると言うのだろう。その子供でも考えれば分かる話に同意できない政治家やマスコミは、いずれの日にか、退場を迫られることになるだろう。
批判するなと言ってるのではない。
無謬性に拘泥した姿勢は、国民から見透かされるよ、と言ってるのだ。
無謬性とは、自分たちの正義感ということだ。正義感であるが故に、間違っていないし、一定数の支持を得られるという誤解のことを言う。
別言すれば、野党議員やマスコミの論調の奥にあるのは、叶わない相手と分かって、それでも批判するしか能が無い自分自身に歯痒さを感じているのではないだろうか?

安倍元総理の遺志を継ぐ野党とマスコミ

例えば、現在の岸田政権の増税路線には、ツッコミどころはいくらでもあると思うのだが、どうしてマスコミや野党議員はそうしないのだろう?アベノミクス批判やモリカケ桜を持ち出したところで、確かにそうだと同調する国民は1%程度のものだろう。大半は、まだやってるのか?と呆れ返るしかない。
では、現在の財務省主導の増税路線に走っている岸田政権に警鐘を鳴らすマスコミや野党議員がいないのは何故だろう?
マイナンバーカード返納問題など、国会で取り上げても仕方ない。正常な頭を持った国民であれば、政府がアナウンスしている内容を読み込めば、行政サービスの向上に資する取り組みであることが一目瞭然であるに関わらず、マイナンバーカードの入力ミスと言うヒューマンエラーで起こった問題など、殊更に問題視することでは無いのだ。ましてや、それをきっかけにカードの返納騒ぎを起こしているなど、明らかに特定の団体等が煽動しているようにしか見えない。
一例を挙げるなら、経済アナリストの森永康平氏の政権批判など、誰が聞いても分かりやすい政府批判であり、国民が理解を深めておく必要がある内容だ。

安倍元総理の宿願であったのが、デフレ不況からの脱却であり、日本を再び国際社会において輝かせることだった。
現在の自民党で安倍元総理の後継と呼べる人材は、残念ながら見当たらない。
しかし、野党やマスコミは違う。
安倍元総理が銃弾に斃れてもなお、安倍元総理の功績を思い出させることに必死なのだ。人々が忘れかけようとすると、野党やマスコミはアベノミクス批判やモリカケ桜で、再び三度、安倍元総理の偉大な功績を思い出させてくれるのである。
今の自民党や財務省は、必死に安倍元総理の存在を忘れさせようと、安倍元総理の功績に触れないように触れないようにしているが、野党やマスコミとその支持者は、真逆の反応を示している。
それは彼らが頭が悪いのではなく、我々国民に、安倍元総理を忘れさせない為の努力を惜しまないからだ。仮にそれが批判であるなら、その批判は間違っているということを、安倍元総理を思い出させてくれた感謝の念で、徹底的に言うべきだし、いちいち反論してあげたほうがいいのだ。
あの衝撃の事件からはや一年が経ち、私たちは再び、安倍元総理の偉大な功績を思い返すことになった。
その安倍元総理の思いを最も大切にして、最も後世の人に伝えようとしているのは、岸田総理でもなければ、財務省でもない。
それは野党議員であり、マスコミじゃないか、との思いを強くした。

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