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立教開宗800年の意義①


(1)浄土真宗のご開山は、法然聖人?

2023年3月28日

 立教開宗とは、浄土真宗という教えが開かれたことをいいます。親鸞聖人のおかげにより、わたし達は、阿弥陀さまの本願の救いを教えていただきます。それは、本願の念仏を信じるだけで、善人も悪人も平等に往生する、念仏成仏の大道です。
 ところで親鸞聖人は、自分が浄土真宗を開いたとは、おっしゃいません。師の法然聖人が開かれたのが浄土真宗であると、生涯にわたって述べられています。『正信偈』には、

本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 真宗教証興片州 選択本願弘悪世
(本師源空は、仏教にあきらかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。真宗の教証、片州に興す。選択本願悪世に弘む。)

『註釈版』207頁

と述べられ、『高僧和讃』源空讃には、

智慧光のちからより 本師源空あらはれて 浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまふ

『註釈版』595頁

と讃えられています。わたし達は、法然聖人が開かれたのが浄土宗、親鸞聖人が開かれたのが浄土真宗と分けて見ますが、親鸞聖人にとっては、恩師法然聖人が開かれた教えこそ、浄土真宗だったのです。
なもあみだぶつ。合掌。

(2)親鸞聖人を「ご開山」としたのは、蓮如上人

2023年3月29日

 親鸞聖人は、自分が浄土真宗を開いたとは、おっしゃいません。師の法然聖人が開かれたのが浄土真宗であると、生涯にわたって述べられています。では、わたしたちはなぜ、親鸞聖人を「ご開山」と呼ぶのでしょうか。これは、本願寺8代目の蓮如上人が、親鸞聖人を「開山」と呼び、この宗を「浄土真宗」と名づけられたからです。
 『御文章』1帖目第15通に、次のように述べられています。

さりながら開山はこの宗をば浄土真宗とこそ定めたまへり。(中略)
されば自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす、わが聖人は雑行をえらびたまふ。このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。このいはれあるがゆゑに、別して真の字を入れたまふなり。

『註釈版』1105頁

「浄土真宗」とは、親鸞聖人が名づけられたものです。それは法然聖人が開かれた浄土宗が、後継者によって、正行だけでなく雑行によっても往生できると説かれるようになったのに対して、親鸞聖人は、雑行は真実報土に往生する正当な行ではなく、他力廻向の信心こそが報土往生の正因であることを示されたのです。つまり法然聖人が開顕された「浄土宗」の真実義を明らかにされたので、「真」の一字を入れて、「浄土真宗」といわれたのでした。
なもあみだぶつ。合掌。

(3)浄土宗と浄土真宗の違い

2023年3月30日

 「浄土真宗」という名称は、親鸞聖人から始まります。それは法然聖人が開顕された「浄土宗」の真実の教えを明らかにされるものでした。法然聖人は、善悪の凡夫が平等に弥陀の浄土に往生することができるのは、念仏のほかにはないと説かれていました。それは、阿弥陀さまの本願である第18願に、そのように誓われているからです。
 ところがそれに対して、第19願では諸行も往生行として誓っているではないか。勝れている諸行を捨てて、劣っている念仏を阿弥陀仏が勧めるはずがないと、聖道門から厳しい非難がおきました。その非難に対して、法然聖人のお弟子のなかには、諸行も往生行として認めるという説が出てきました。
 弁長上人から良忠上人へと受け継がれた浄土宗鎮西派では、念仏でも往生できるし、諸行でも往生できるが、念仏が勝れているから法然聖人は念仏を勧められたと述べられています。
 また証空上人の浄土宗西山派では、念仏の徳を開いたものが諸行であるから、諸行も念仏だと思って修行したら念仏となると教えられます。
 このように外聖道門からも、内浄土門からも、法然聖人の念仏往生の教えがゆがめられようとするなかで、親鸞聖人は本願力廻向のはたらきによって往生するという、浄土真宗の法義を明らかにしてくださったのです。
なもあみだぶつ。合掌。

(4)たびたびの弾圧のなかで① 

2023年3月31日

 親鸞聖人の当時、法然聖人の教えは「仏教ではない、悪魔外道の教えである」とまで非難されていました。親鸞聖人の得度の師と伝えられる慈円和尚が、「あんな者の教えによって、極楽にゆける者が一人もあるとは思えない」と、『愚管抄』に酷評されるほどでした。従来の仏教界からの批判は厳しく、法然聖人73歳、親鸞聖人33歳の元久2(1205)年には、奈良の興福寺から当時の仏教界の総意として、「法然の念仏を禁止するように」という『興福寺奏状』が出されます。
 それから2年後の建永2(1207)年におきるのが、「承元の法難」と言われる宗教弾圧事件でした。これは建永2年が10月に改元され、承元元年となります。親鸞聖人は、改元後の名称を用いられるので、真宗では「承元の法難」と呼び習わしています。無実の罪で、法然聖人の弟子4人の首が切られ、法然聖人はじめ8人が還俗させられて流刑地にながされてゆきます。親鸞聖人も、そのひとりでした。
なもあみだぶつ。合掌。

(5)たびたびの弾圧のなかで②

2023年4月1日

 親鸞聖人は『教行証文類』の最後に、承元の法難について述べておられます。

主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。

『註釈版』471頁

 当時の最高権力者である後鳥羽上皇やその配下の官僚が、僧尼令という法律にもとづくことなく、私怨によって、無実の罪で弾圧が行われたことを厳しく批判されています。『歎異抄』の最後の流罪記録によれば、住連・安楽・性願・善綽の4名に死罪が行われました。(『註釈版』855頁)
 この西意善綽房は、親鸞聖人(当時は、善信房)と一緒に行動しておられた方です。親鸞聖人も、死罪が決まりかけていたのを、中納言の藤原親経のとりなしによって流罪になったことが、覚如上人が書かれた法然聖人の伝記『拾遺古徳伝絵詞』巻7第4段に記されています。(『浄土真宗聖典全書』4巻195頁)
 もしこの時に親鸞聖人に死罪が行われていたら、浄土真宗の開宗はなく、わたし達もお念仏のご縁に遇っていないかもしれません。いまここわたしに、本願の念仏が届けられていることが、不思議です。
なもあみだぶつ。合掌。

(6)たびたびの弾圧のなかで③

2023年4月2日

 承元の法難によって、法然聖人は四国に、親鸞聖人は越後に流されてゆきました。法然聖人は、前の関白の九条兼實の庇護のもと、藤原家の氏寺である法性寺から出発されます。お年は75歳の高齢です。これが今生のお別れかもしれないとお弟子が嘆いているなか、法然聖人は、突然ひとりのお弟子に対して念仏の教えを説き始めます。それを見たお弟子の西阿が、思わず声をかけました。
 「法然聖人、今は念仏のお法りを説くことはおやめください。専修念仏は禁止されているのです。」
 法然聖人は、西阿に向かっていいました。
 「おまえは、私のもとで何を学んできたのだ。お経や祖師方の教えに、念仏を説くのをやめよと言われたところが、1カ所でもあるか。」
 西阿は、答えました。
 「お経や祖師の書物はその通りでしょうが、今は念仏が禁止されている最中です。法然聖人の身に何かがあってはなりません。どうか念仏を説くのはおやめください。」
 すると、法然聖人がおっしゃいました。
 「たとえこの首がはねられようと、念仏の救いを説くことをやめることはできない。」
 そのお姿は、まるで炎が燃え上がるような威厳に満ちていました。
(覚如上人『拾遺古徳伝絵詞』巻7第2段、『浄土真宗聖典全書』5巻193~194頁)
なもあみだぶつ。合掌。

(7)たびたびの弾圧のなかで④

2023年4月3日

 法性寺から出発される時、別れを嘆く信空上人に向かって、法然聖人は次のように述べられます。
 「流されてゆくことは、よろこびである。今までは京都の人にしか教えを説くことができなかったが、今度は地方にも教えを広めることができる。」
 これは、朝廷は流罪という刑罰を与えるつもりかもしれないが、わたしは布教伝道の旅に出るのだ、という宣言でした。親鸞聖人も、同じようにおっしゃったと、『御伝鈔』上巻第3段には伝えています。(『註釈版』1045頁)
 しかし実際は、失意のどん底であったと思われます。友が殺され、せっかく遇えた師とも別れさせられ、自身も殺されそうになりながら、僧侶をやめさせられ、無実の罪で、罪人として流刑地である越後に流されていく。その越後の地で、おそらく必死になって読んでゆかれたのが、天親菩薩の『浄土論』と、それを註釈された曇鸞大師の『論註』でした。それは、師の法然聖人からお聞かせいただいた本願の念仏とは何かを、もう一度自身のうちに確認していく、深い思索の時間でした。
 そして38歳頃に、新しい天地が開かれたのです。それが、本願力廻向という、如来の大悲によって顕された仏道でした。仏道とは、わたしが、煩悩を少しずつ消して、仏の悟りに向って行くことである。そう考えられていました。しかしこの煩悩のわが身にこそ、如来の大悲は充ち満ちてくださっていたのです。それがお念仏となって現われてくださる「南無阿弥陀仏」でした。この念仏の大地に樹つ、ただひとりの念仏者の誕生こそ、天親菩薩と曇鸞大師の2人の名前をいただかれた、「親鸞」という名のりでした。浄土真宗は、ここから始まります。
なもあみだぶつ。合掌。

(8)たびたびの弾圧のなかで⑤

2023年4月4日

 流罪に際して、法然聖人はまた信空上人に予言されます。
 「この念仏の教えは、濁りの世に生きる者が、迷いの世界を超えてゆく要道である。天地の神々も影ながら護っておられることであろう。この度の念仏弾圧は、僧侶の首をはね、流罪にするなど、いまだかって聞いたこともない事件である。因果応報の道理は、必ず現れる。あなた方は、長生きしたらわかるだろう。」
 法然聖人は、この5年後に80歳でご往生されます。その9年後の承久3(1221)年におきるのが、承久の乱です。当時は、鎌倉を中心に樹立された武家政権と、京都を中心とする朝廷との二元政治の状態にありました。朝廷の権威を回復しようとした後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の執権北条義時を討てと命令を出します。しかし逆に幕府の軍勢によって敗北を喫し、3人の上皇は流罪となります。念仏を弾圧した張本人である後鳥羽上皇は隠岐島に、順徳上皇は佐渡島に、討幕に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国に流罪になりました。
 法然聖人の念仏教団を弾圧した承元の法難と、三上皇流罪の承久の乱とは、全く関係はありません。念仏を弾圧したから後鳥羽上皇が流罪になったのではなく、鎌倉幕府を討てと命令して、それが敗れたので流罪になったのです。ところがこの2つの事件が、法然聖人の予言によって結びつけて受けとめられたのです。
 「ああ、やはり法然聖人の仰せの通りであった。」
 念仏者だけではなく、当時の人は皆そのように受けとめたのでした。それは、親鸞聖人のお手紙にも述べられています。(『註釈版』783頁)
なもあみだぶつ。合掌。

(9)たびたびの弾圧のなかで⑥

2023年4月5日

 承久の乱から3年後の貞応3(1224)年が、法然聖人の13回忌にあたります。法然聖人のお墓を中心に、再び念仏の声が高まってきたことを危惧した比叡山の大衆は、朝廷に専修念仏を禁止するように訴え状を出します。いわゆる『延暦寺奏状』です。
 親鸞聖人33歳の時に、当時の仏教界の総意で出されたのが『興福寺奏状』でした。そこには9カ条の失をあげ、法然聖人を批判していました。「浄土宗」という新しい一宗を独立して、国を乱していることがけしからんと言うのです。その訴えが朝廷に受け入れられたのが、その2年後の承元の法難であると、親鸞聖人は述べておられます。(「後序」、『註釈版』471頁) つまり承元の法難は、僧侶が女性と関わりをもち、風紀を乱したというものではなく、従来の仏教界からの思想弾圧であると見られたのです。
 親鸞聖人が52歳の時に出された『延暦寺奏状』には、6カ条の失をあげています。内容は、『興福寺奏状』とほぼ似たものですが、2つだけ異なっています。
 1つは、『興福寺奏状』に取り上げられていた「摂取不捨曼荼羅」への言及がないことです。「摂取不捨曼荼羅」とは、念仏者だけを阿弥陀さまの光明が照らし、そのほかの行者には光明がそれていくという絵を描き、念仏を勧めるのに用いていたものでした。おそらくこの絵はすべて、承元の法難の際に焼かれたものと思われます。
 もう1つは、専修念仏の者は、今は末法の時代であるから念仏以外に救いの道はないと盛んに宣伝しているが、それは間違いであると訴えていることです。これが遠因となり、3年後に引き起こされるのが、嘉禄の法難でした。
 『延暦寺奏状』が出された貞応3年は、11月に改元され、元仁元年となります。親鸞聖人が『化身土文類』に、元仁元年を末法の算定の年号とされるのは、この時にこの書物を書かれていたのではなく、この年に出された『延暦寺奏状』に対峙するものでした。
(参照 梯實圓『法然教学の研究』492~537頁)
なもあみだぶつ。合掌。

(10)たびたびの弾圧のなかで⑦

2023年4月6日

 嘉禄の法難の直接の契機となったのが、隆寛律師が著した『顕選択集』でした。上野国の天台僧定照が『弾選択集』を書いて法然聖人の『選択集』を批判したのに対して、「おまえの言うことは、闇夜に礫(つぶて)を投げているようなもので、まったく当たっていない」と反論したのです。
 比叡山の大衆は怒りました。嘉禄3(1227)年6月、延暦寺は祇園社の犬神人に、大谷にあった法然聖人の廟堂を壊させ、遺体を鴨川に捨てようとします。法然聖人のご遺体は、亡くなった後で火葬にされず、処理されて生きたままの姿を留めていました。急な知らせをうけて駆けつけた六波羅探題の武士の、宇都宮頼綱や弟の塩谷朝業によって、遺体が晒されることは防ぎました。遺体は、嵯峨の二尊院に運ばれ、すぐに太秦の広隆寺に移され、翌年安貞2(1228)年1月25日、法然聖人の17回忌にあたって、西山の粟生の光明寺で火葬にされました。
 嘉禄3年7月には、隆寛律師は陸奥へ、幸西大徳は壱岐に、空阿上人は薩摩に流罪が行われます。10月には、法然聖人滅後すぐに出版された『選択集』の版木も本も朝廷が取り上げて比叡山に送ると、延暦寺の大衆はそれを大講堂の前で焼いてしまいます。
「こんな書物があるから、世の中を惑わす。この書物を焼くことは、釈尊の恩に報いることだ」と言いながら焼いたといいます。
 親鸞聖人が『顕浄土真実教行証文類』を著されるのは、法然聖人の教えが厳しい非難を浴びているなかで、本願念仏の教えこそ真実の仏道であることを明らかにされるのです。この書物の最初の一字は、隆寛律師の『顕選択集』をうけて命名されました。「顕」の一字が、どんな迫害にもひるむことのない、大きな輝きを放っています。
なもあみだぶつ。合掌。

岡本 法冶
本願寺派布教使・輔教
真宗学寮教授・広島仏教学院講師
https://fukyo-shi.com/okamoto-houji/

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