”僕は病原菌なのか”コロナウイルスと僕の存在価値について。
コロナウイルスが発見されてから、1年と半年ほどが経つだろうか。
終わりの見えないこの状況に嫌気がさしている人も少なくないと思う。
僕自身、この期間の間に「なんのために生きているのか」分からなくなってしまった。
そんな僕がnoteを始めたのには、ある考えがあったからだ。
それは、自分がいつ死んだとしても、世の中が変化することのない日常。僕が生きていた記憶はあろうと、確実に忘れ去られていくこの世界で、せめて僕自身の考えや思いをどこかに残したいと思ったからだ。
簡単に言えば、生きた証を作りたかった。
今思えば、その方法は手紙でもブログでも何でもよかったかもしれない。たまたま目についたのがnoteだった。
前置きが長くなった。本題に移ろう。
今回書こうとしている内容は大雑把に言えば、
「コロナウイルス期間を通して考えた自分の存在価値について。」
といえるのかも知れない。
僕自身、現在大学二年生。そろそろ将来を見据えなければならないこの時期に、僕は自分の存在価値を見失っている。
一人暮らしをしている大学生にとって帰省することは一つの一大イベントといえるだろう。
僕も同じだったが、いつからか、そう思えなくなった。
関東方面に住んでいる僕は、コロナ禍で実家に帰ることを簡単には決められなかった。
地方にいる僕の家族や友人、はたまた他人であったとしても、僕は関東に住んである大学生であることに変わりないのだ。
地方の人間にとって
関東(都会)の人間=コロナウイルス
という関係式が成り立っているような気がする。
そう、僕は菌なのだ。それも日本、いや、人類の存続を脅かすレベルの。
文面や声では、そうは思っていないように伝えられたとしても、隠しきれてない。はっきり言ってくれとは言わないが、自分自身でそのことを自覚する時間が、僕にとっては何よりも苦痛だった。
相手に悪気もなく、誰も悪くないことが悲しさを加速させた。
どこにも向けることができない、苦しみの矛先は自分自身でしかない。
僕は生きている価値がある人間に値するのか
悲しさが僕自身に問いかけたのは、「何のために生きているのか。」という質問だった。
生きることに繁栄以外の意味を見出そうとする生物はヒトだけなのではないか。
その意味を見つけるのが人生であるという人もいる。
個人的には、そんなものはないだろうし、本質的には死ぬのが嫌だから生きているだけだと思う。
最近は感情が麻痺しているので、否定的に考える癖がついているのかもしれない。
ただ、僕自身は生きている価値がない人間だと思うようになった。
誰かが、死んでいい人間はいないというかもしれない。
ただ、自分が生きていていい人間なのか聞かれれば、僕は悩むかもしれない。
誰かが悲しむとか、そういう問題以前に、生きていても何も生み出すことができない人間だから。
夢もなく、自分の思うような人生でもない。
翼を広げて飛びたかった鳥の羽は、初めから折れていたのかもしれない。