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わたしの中の、眠るかいじゅう

「迫力」について、あらためて考える。

文章にも「迫力」というものがある。当然、内容に関してもそうなのだが、それ以前の“佇まい”というか。本当に、人と文章は似ている。パッと見た時の印象で、迫力は伝わるものだ。この「迫力」が重要なのだ。

美しかったり、しなやかだったり、たくましかったり、やわらかかったり、しとやかだったり。様々な文章の“佇まい”がある中で、「迫力」を備えているものはそこまで多くはない。それは、極端に研ぎ澄まされた結果なのかもしれない。たとえば、磨かれた美意識の先に宿る圧力のような。はかりしれないタフさが醸し出すムードのような。徹底されたやわらかさが孕んだきらめきのような。

確かにそれはある。しかしながら、そのような鍛錬の先に獲得できるものだけではないような気がする。内容や表現が未熟であっても、迫力のある文章を書く人はいる。つまり、「迫力」とは技術であり、技術でない、ということ。

この「迫力」がほしいわけである。一行目から、「これは只事ではないぞ」と思わせる何か。二、三行読むに従い、こころ掴まれ、ドライブしてゆく感覚。途中からだんだんのめり込んでゆく、なんていうのは嘘だ。惹き込まれる文章は、最初から既に惹き込まれているのだ。

それは、人や文章に限ったものではない。一杯のコーヒーでも、一皿の料理でも、一枚の絵画でも、一曲の音楽でも。なぜ、そこに「迫力」が宿るのだろうか。そして、その「迫力」にどうして惹き込まれるのだろうか。

わたしたちは誰もが内側にかいじゅうを飼っていて、それがつくったものに宿るのかもしれない。多くの人は、かいじゅうを眠らせたまま過ごす。ついぞ一度も目覚めることなく人生を終える人もいるだろう。そこに“ある”のだけど、“ない”まま過ごす。機能していないだけ。何かの拍子に、かいじゅうが目を覚ます。その方法は、一人ひとり違うから、自分で見つけなくてはならない。

そう考えると、ちょっぴり楽しい。

眠るかいじゅうを呼び覚ませ。


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嶋津 / Dialogue designer
「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。