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日記は、人間の詩

原稿を書いて、動画の編集をする日曜日。

細やかな判断が続いているので、塵のような疲労が溜まっている。フレッシュな風を迎え入れて、頭の中をデフラグメンテーションしたい。

夕刻、Mo(l)isten【13】をひらく。

フリードリヒ・グルダのピアノを聴きながら、詩と祈りの話を。「願い」と「祈り」は似ているようで少し違う。「願い」は個人的な欲望に近いところにあり、「祈り」は手放しにした希望のひかり。わたしは「祈り」に惹かれる。想念であり、告白であり、捧げるもの。

遊びに来てくれた人と雑談しながら、わたしはインターネットに載っていることばではなく、その人が生きてきた中で発露することばに惹かれるのだと気付いた。人に話を聴くシチュエーションでは、情報を仕入れたい時と“人間”を味わいたい時がある。わたしは、“人間”から奏でられる音色に触れ合いたい。魅力的な対話は、情報と人間の両方が掛け算となって展開してゆく。自分の内側に生まれたことばを恥ずかしがることはない。

わたしが日記を書いているのも、人に日記を勧めるのも、そこに理由がある。思ったこと、感じたこと、内側に生まれたそれらのことばを、偽りなくことばにする。それは、人間の音色だ。最初は、きれいに音が鳴らなくてもいい。小さくてもいい。でも、続けているとだんだん感性がひらいてゆき、自分の音色が鳴りはじめる。AIには奏でられない“わたし”という音楽。

その音楽は、やがて詩となる。聴く者、読む者に鮮やかな情景と想像の余白を与える。もっともっと解放する。恥じらいや承認欲求を手放してゆく。そう、自分を丸裸にしてゆく。大切なものは身につけていた服や鎧にはなく、裸のこころにあることに気付くのだ。

最近、“おもしろい雑談”とは何かを考えている。

「さんぽ・雑談・日記」は同じ要素で構成されている。“おもしろいさんぽ”について考えると、自ずと“おもしろい雑談”や“おもしろい日記”がどういう具合で生まれるのかが見えてくる。それは、どれを入れ替えても同じ。

久しぶりに「言語化れんしゅう」をする。

【教えてください】

あなたにとって「おもしろい雑談」とは、どんな雑談ですか?

嶋津(X)

いろんな人の「おもしろい雑談」が届く。人それぞれ、考え方が違っておもしろい。わたしの考える「おもしろい雑談」は、先に書いた「知識と人間の詩の掛け算」だ。答えは人の数だけある。

それを一つひとつ読ませてもらうのもまた、人間の詩を鑑賞するような体験で、とても楽しい。



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嶋津 / Dialogue designer
「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。