誰もがみなサグラダ・ファミリア
昨夜、出先で偶然見つけた創作居酒屋で食事をした。
さっぱりと垢抜けた気持ちのいい店で、どの料理も一手間かけられており、工夫が色っぽく、豊かでいて慎ましやかな味わいだった。「いい店だ」とスマホで店名を検索すると、家の近所にあるわたしたちの好きな居酒屋の姉妹店であることがわかった。『桃花片』を思い出す。
『桃花片』とは、小学生の頃に国語の教科書に載っていた小説で、陶芸家の父と息子の話。丁寧な仕事ではあるが普段使いの器しかつくらない父に息子は疑問を抱いていた。「技術があるのだからもっと華やかな陶磁器をつくればいいのに。自分だったもっと立派な作品をつくる」と息子は考えていた。実際に思い描いていた器をつくりはじめたものの、父は息子の器を褒めなかった。やがて父は亡くなり、切磋琢磨して息子は名人になった。彼のつくった陶磁器は、富豪の間で売買され、立派な応接間などに飾られるようになる。名実共に手にした彼は、晩年一つの器と出会う。何とも素朴なのだが、こころが惹かれる美しい佇まい。わかりやすく言えば、その年齢になって瑞々しく感動したのだ。手に取って裏を見てみると、そこには父のサインが刻印されていた。という話だったと思う。
朧げな記憶を頼りに物語の筋を書いてみると、創作居酒屋の話は微妙にずれてはいるが、思い出してしまうのだから仕方がない。
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髪を切った。
もうかれこれ十数年お世話になっている美容師さんなのだが、彼女の話がおもしろかった。家族の髪を彼女が切っているらしく、およそ月に一度のペースで旦那さんの髪を整える。それまでは旦那さんの髪が伸びてると「野暮ったいから切ろうか」と彼女の方から声をかけて切っていたらしいが、ここのところ旦那さんが「そろそろ切ってほしい」と口にするまで自分から提案することはしなくなったそうだ。理由は、旦那さんの普段の振る舞いやことばの扱い方に無神経さを感じるため、こちらから手を差し伸べることにうんざりしはじめたからだという。
先日、旦那さんから「そろそろ切ってくれ」と言われたので仕方なく切ることにした。自分が営む美容室を一人で切り盛りしているため、営業後に旦那さんを店に招いてそこでカットするのが通例らしい。旦那さんの髪を一通り整えた後、一人で切った後の髪の毛を掃除していると、ふとソファにだらんと座る旦那さんの姿が目に入った。その姿に違和感を覚えつつ、何も言わずにタオルを洗って干して、すべて一人で片づけをして店を後にした。
営業後で、さらに“仕事にはならない仕事”までこなした後ということもあり、いい時間である。そんな中、帰りの車内で旦那さんが「夜は鍋でいいで」とつぶやいた。
「アウト」
彼女は旦那さんに向かってそう言った。そのことばに旦那さんはただ驚くばかり。その鳩が豆鉄砲を食ったような顔に向かって彼女は「何がアウトかわかる?」と訊ねる。「わからない」と答える旦那さん。
「『鍋“で”いい』ってどういうこと?わたし、仕事終えたばかりで、さらに仕事でもない頼まれごとを終えたばかりなの。まだ『鍋が食べたいな』だったらわかる。『鍋でいい』は違うでしょ」
旦那さんはよく彼女のことばをよく理解できないでいる。悪気がないのだ。悪気がないから『鍋でいい』ということばのどこに問題があったのか見当がつかないのである。そして、彼女の怒りは『鍋でいい』以前から既にはじまっていたことさえ気付かないでいるのだ。
わたしの髪を切りながら、彼女は続けて話した。
「わたしね、彼(旦那さん)にプラスは求めていないの。ただ、マイナスを消す努力はしてもらおうと決めたの。振る舞いやことばの使い方でカチンときたら、その度に正すようにする。彼ね、応用はできないけれど、決められたことは守ることができるから」
「最高ですね。コミュニケーションの大事な部分が詰まっている。そのやりとりのテキスト、みんなに配りたいです」
わたしがそう言うと、彼女は笑いながらこう言った。
「自分が機嫌よくいるためには、そうやって示すことが必要なんだって最近気付いたんです」
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世界遺産のサグラダ・ファミリアは、ガウディがつくった完成しない建築物。
見方を変えれば、延々と成長し続ける建物であり、作品。わたしたちは、誰もがサグラダ・ファミリア。そんなことを、ふと思った年末。