墓を荒らす
未来の自分はいつだって過去の自分に厳しい。
大切に書きあたためていた文章がある。ここ数日、それを読み直しているのだが大きな発見があった。「文章なぞは、あたためるものではない」ということ。あたためている間に燃え殻になってしまっている。風が吹けば、散り散りに飛んでゆく。過去に自分が書いた文章を読むのは、ミイラを眺めているみたいだ。そこにはもう“わたし”はいない。道具になりそうな白骨を採集して、新たにいのちを吹き込む。推敲とは、そういうものなのかもしれない。
文章は、その人を現わす。しかしながら、数ヵ月で細胞が入れ替わるように、時間が経てば文章もまた今の“わたし”ではなく、他人になる。他人の文章になると、今まで見えなかったものが見えてくる。次々と未熟な点が浮き上がる。未来の自分はいつだって過去の自分に厳しい。
この感覚も人それぞれだと思う。自分の書いた文章が大好きで、時間が経ってから何度も読み直す人もいる。同窓会で何度も同じ思い出話で盛り上がるのが好きな人がいるように。きっぱりと“過去のわたし”と割り切れる人もいる。「そういう時期だった」と、距離を空けながら絵画を鑑賞するように。
いずれにせよ、現実こそが事実であることは忘れてはならない。事実をニュートラルに静観できる人が、たくましく、しなやかなのではないだろうか。
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