いつもこころにミスター・サタンを*
鳥山明先生の作品に『ドラゴンボール』という不朽の名作があります。
その中で、「ミスター・サタン」というカーリーヘアーの格闘技世界チャンピオンが登場します。孫悟空などの主要メンバーと比較すると圧倒的に戦闘力は低く、作品内ではコメディタッチに描かれています。彼が本当に弱いのかというと、そうではなく、孫悟空たちが強過ぎるのです。
ミスター・サタンは、空を飛ぶこともできないし、「かめはめ波」のように手からビームを出すことはできません。悟空たちの闘いを端で見ながら「あれはどういうトリックだ?」と訊いて回ります。そのユニークで人間味あふれるキャラクターによって、殺伐とした戦闘シーンを和ませてくれました。
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宇宙人を見るような目で悟空たちを見るミスター・サタン(実際に宇宙人をだったりするのですが)。体裁を取り繕ったり、自分を大きく見せたりするその姿に、ぼくたちは「まったくもう」と思う一方で、彼の存在が関係性においてメタ的な役割を果たしていることに気付かされます。つまり、悟空たちの価値観とは別の価値観が差し込まれることで世界は突如として多層的になる。
殊に、人に何かを「伝える」場合には、ミスター・サタンの視座は重要です。たとえば、悟空たちの戦闘を、コミュニケーションに置き換えて考えてみましょう。とあるコミュニティの中では当たり前のことでも、別の価値観の中で生きてきた人には理解ができない。そのようなケースは珍しくありません。あるいは、空を飛んだり、手からビームを出すことは、ロジックの急速な展開や、専門用語の羅列、省略されたことばなど、テクニカルな会話に置き換えることができます。サイヤ人同士では理解できても、地球人には全くついていけない。現実社会でも、そのようなことはしばしば起こります。
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いつもこころにミスター・サタンを
ぼく自身も、理解力が追い付かずに疎外感を覚えたことは一度や二度ではありません(数えきれないほど体験しています)。ミスター・サタンの立場で、空中で行われる白熱した戦闘をただ傍観するしかない。そして、それは自分もどこかで周りの人を同じような気分にさせている可能性もあります。それを回避するためには、自分のこころの中にミスター・サタンを宿すこと。
前提となる知識や価値観をゼロにして、相手に伝わる振る舞いやことばに置き換えること。『ドラゴンボール』の世界ではミスター・サタンはマイノリティですが、彼が普段生活している世界では悟空たちが圧倒的マイノリティなのです。地球という器で考えると、最も共感を生むのは(影響力を発揮するのは)、ミスター・サタンだったりします。
つまり、小さな世界の中での「当たり前」でしか表現できないことで、ぼくたちは大きな世界に届く機会を損失している。それは、とてももったいないことだと思います。
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「頭の良さ」って何でしょう。
様々な尺度がありますよね。分析力、思考力、理解力、記憶力、表現力、共感力、想像力……いろんな「〇〇力」があり、それら一つひとつが「頭の良さ」に紐づいています。試験などで、ある一定の基準を元に数値化したものだけでは決して測れません。たとえば、「世紀の大発見」のような価値のある考えがあったとしても、それが相手に伝わらなければ、その価値に気付いてもらうことはできません。
「伝える力」もまた、頭の良さの一つの尺度だと思っています。
いつもこころにミスターサタンを。
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