「考える」は無駄である
あたまが回らない。
体調を崩して一週間が経つ。高熱と、悪寒と、頭痛と、熾った炭火のような喉により、あらゆる能力が奪われた。おもしろいもので、からだは生命の危機を感じると、無駄な機能を排除してゆく。“生きる”を継続させるために、よりシンプルなはたらきだけを残すのだ。
「考える」ができなくなる。あたまに気を巡らせるよりも、からだに痛みを発信させる方が、わたしのからだにとっては大事なのだ。文章を読むことができないし、人の話を聴くこともできない。実際的な理由で、それらを求められる場面があったのだが、わたしのからだがそれをやりたがらない。
興味深い現象である。あんなに好きだった読むことや聴くことを、わたしのからだは放棄しているのだ。「考える」を無駄であると判断した。
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今日、明日どうなるのかわからないわたしにとって、100年先の未来を考える理由はない。それよりも、思考力をはく奪し、眠らせた方が今のわたしのからだには大きな意味がある。わたしのからだは優秀だ。
「考える」を取り上げられたわたしは、「考える」の存在について、足りない知能で考えた。「考える」がなくなった今、以前までいかにわたしが「考える」をしていたのかに気付く。「考える」がなくとも、からだは機能し続ける。「考える」は無駄だらけだ。
気力も体力も削り取られたからだの声は、直線的なメッセージを送る。水分が足りなければ、喉が渇く。最短距離で、受け取ることができる。間違った反応は示さない。そこには無駄はない。
「考える」のない時間の流れは新鮮で。今まで、どれほどの無駄を味わってきたのかを思い知らされた。豊かな“余分”に満たされていた日々だったのだ。
無駄があるから、生きていることが楽しい。
回らないあたまで、わたしはそんなことを感じていた。はやくからだを治して、“無駄”に明け暮れたい。