
OK、リヴァプール
学生時代、バーテンダーのバイトをしていた頃、大の矢沢永吉ファンのお客さんがいた。
どのくらいファンなのかというと、ちょっとしたパーティがある時は全身白スーツでキメるような人で、憂いた眉をしながら「よろしく」と言うのが口癖だった。年齢はわたしの二回り上で、矢沢永吉のドンピシャ世代。最初に会った時はわたしの涼やかな態度が気に入らなかったのか、わたしに対してあからさまに敵意を向けた。カウンターで店員と数人のお客さんで話が盛り上がっている時にわたしのことだけ無視をしたり、端の席から作業しているわたしを睨みつけたり、実際に何度か気分が悪くなるようなことばを言われたこともある。店長は「あのお客さん、ちょっと癖あるからあんまり気にしないで」とわたしを気にかけてくれたが、当のわたしはそれほど気に留めてもおらず、いつもと変わらない態度で仕事をしていた。その飄々とした姿が下町の矢沢を逆撫でているようでもあって、ずいぶんと彼を苛立たせていたのだと思う。
ある日、オープンの時間と同時に下町の矢沢が店を訪れた。店内にはわたししかおらず、その光景を見た矢沢は一瞬足を止め、席につかずに店から出ようと逡巡したが、さすがにそれは不格好だと思ったのか、カウンターの真ん中の席に座った。おしぼりを渡して「何しましょう?」と聞くと、矢沢は目を合わせずに「ビール」と答えた。
店内は、わたしが一人で作業してた時よりもずっと静かなように思えた。矢沢は矢沢で、居心地悪そうにビールを飲んでいた。高圧的な態度ではないのは、まだ素面に近い状態だからだろう。考えてみれば、矢沢と会う時のほとんどは深夜で、その頃にはたらふく酒を飲んでいるものだから、わたしに対する態度もあからさまだったのかもしれない。グラスのビールが三分の一を迎えた頃、沈黙を破ったのはまさかのわたしだった。
「矢沢永吉さん、お好きなんですよね?」
下町の矢沢はずいぶんと驚いた表情をした。その一杯を飲み上げたら店を出ようと思っていたのだろう。普段、自分がいけずしている二回り年下の学生から話しかけられるとは思っていなかったようだ。
「あぁ、好きやな」
「ぼくも好きなんです」
矢沢の目の色が変わった。香ばしい匂いがする目つきだ。今考えれば、相当な踏み込み方だったように思う。熱狂的なファンの前では、控えておいたほうがいい行為だ。
「ほぉ…何の曲が好きなん?」
わたしの目から視線を話すことなく矢沢はそう訊ねた。
「『A DAY』が好きです」
そう答えると、矢沢は眼球を丸くした。
「え、お前、『A DAY』好きなん?」
矢沢はビールの残りを飲み干して、お代わりを注文した。その曲についてしばらく語り合った後、二人だけの店内で矢沢は『A DAY』をアカペラで歌った。結局、その日は翌日を迎える頃までカウンターでグラスを傾けた。そこからわたしは下町の矢沢に気に入られるようになった。
矢沢は酔うと毎回「オレは、こいつを信用している。だって『A DAY』が好きだと言いやがるんだぜ。『止まらないHa~Ha』でもなく、『アイ・ラブ・ユー、OK』でもなく、『A DAY』なんだ」と周りのお客さんにわたしを紹介した。どうやら、下町の矢沢にとっては最高の選曲だったらしい。わたしは矢沢永吉世代ではないが、彼の音楽を聴いたり、本を読んだりするのは好きだった。おもねることもてらうこともなく、素直に答えてよかったと思う。
そんな下町の矢沢は、べろべろに酔うとカウンターに突っ伏したような姿勢になる。「チェイサー入れましょうか?」と聞いても首を振る。「まだ何か飲みますか?」と訊ねると、彼は「OK、リヴァプール」と答える。深夜になると登場する、あの「OK、リヴァプール」ということば。よくわからないが、なんとなくわかってしまう不思議なことば。
あれからずいぶんと時は経過したが、たまにわたしは「OK、リヴァプール」と独り言ちてみることがある。下町の矢沢は、今どこで、何を想うのだろう。
いいなと思ったら応援しよう!
