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あなたといた証

「乾杯」

僕はバーを営んでいて、数えきれない時間を現場で過ごし、きっと人よりも多くその言葉を聴いてきた。かけ声を合図にグラスの重なる祝祭的な音が響く。その調べは、いつ聴いてもいいものだ。それは祈りにも似ている。

乾杯は一人ではできない。いつだってそこには「あなた」がいる。もし一人だとしても、その瞬間だけは心の中に「あなた」を思い浮かべる。「あなた」でなく「わたし」でもいい。誰かを想うそのかけがえのない時間が、グラスの音色と溶け合って、言葉にならない美しさを醸す。そう、その瞬間は、二度と戻って来ないんだ。

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いつからだろう。「瞬間」に愛おしさを感じるようになったのは。水面に反射した光のプリズムのように、いたるところで「乾杯」という言葉が繰り返されて、出会いと別れが交差する。今でも親しくしている人もいれば、もう会えない人だっている。どこで何をしているのかわからない人もいる。少なくとも「乾杯」の瞬間は、僕たちはつながっていた。そう感じることは、とても愛おしいことだよね。

今朝、庭の木を観察していると蝉の抜け殻があった。正確には「抜け殻」ではなく、羽化する最中の幼虫だった。木肌に爪を引っかけて、背中から半分体を出したところで黒く変色し、動かなくなっていた。羽を広げる前に力尽きたんだ。木肌にしがみついたまま静かになった蝉が自分の姿と重なった。

決して感傷的な気持ちにならずに読んでほしい。僕はヒルシュスプルング病を抱えて生まれ、幼い頃に大腸を切断した。素敵な先生のおかげで、今では普通の人と同じように暮らすことができている。でもね、そう長くは生きられないらしい。「長い」というのは主観的な感覚だから、どれくらいなのかは知らない。だけど、少なくとも平均よりは短いのだという。そりゃそうか、腸を切っているのだもの。

もう一度書くけど、感傷的にならずに読んでほしい。僕はね、別にそのことに対して困っていない。世界一素敵な妻と結婚できたし、ユニークであたたかい仲間とも出会えたし、好きな仕事をして暮らしている。健康な人でも、思いがけない出来事で命を落とすことだってある。つまり、誰もが「明日へと続く命」に対しては平等に生きているんだ。

「乾杯」

これを読んでくれている「あなた」と乾杯したい。この「瞬間」を留めていたいんだ。一応、僕にも夢がある。文章によって形にしたい世界がある。少し恥ずかしいけれど書いてみよう。ここには人の夢を馬鹿にする人はいないからね。〝一応〟なんて言うと自分に失礼だね。言い直そう。僕には夢がある。僕は、言葉で生活が変わる世の中をつくっていきたい。自分でも文章を書きながら、文学のエトワールが生まれる土壌をつくりたい。今はその遠い旅の途中。

でも、今朝見た蝉のように、羽を広げる前に固まってしまうかもしれない。今はこんなに元気でも、きっと、その瞬間は突然訪れる。

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これまで僕はずっとそんな恐怖と一緒に過ごしてきた。それが、いつの頃からかその鉛のような不安は薄らいでいった。そう、僕は彼(恐怖)と夜が明けるまで語り合って、仲良くなったんだ。

誰もが平等に「死」という機会を与えられている。でも、僕は病気を患った分だけ、人よりそのことについて考える時間が長かった。ずいぶんと早い段階で彼とたくさん話し合えた。そういう意味では、ラッキーだったのかもしれない。

「死」がそばにいると、目に見える景色は美しく色づく。それは本当だよ。いかなる時でも、僕は希望を忘れない。妻と出会い、仲間と出会い、毎日が楽しい。いかなる苦難が目の前に立ちはだかっても、その中に美しさを見出すことができる。

その「瞬間」は二度と戻らないんだ。そこに丹精を込める。一杯のグラスにビールを注ぐ時でも、「あなた」に手紙を書く時でも。いついなくなっても良いように。明日会えなくなっても良いように。「また会える」と思っていた人と連絡がとれなくなることは珍しくない。それと同じだけ「もう会えない」と思っていた人と再会することだってこの世界では起きる。

その度に乾杯する。目の前の「あなた」、心の中に描く「あなた」、そして「わたし」に向けてグラスをかかげる。それは祝祭的な音を奏で、瞬間の中に永遠を閉じ込める。僕にとって「乾杯」は、いつだって美しいものなんだ。

「乾杯」はあなたといた証。

そのかけがえのない瞬間を想う。

この世界は美しい。




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嶋津 / Dialogue designer
「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。